怒った人
馬鹿にしていた部下に、馬鹿にされました。
この屈辱的な様子は衆目にさらされた。彼の無能ぶりは日頃から耐えがたかった。上司として幾度となく忸怩たる思いに胸を塞がれてきた。彼はいじられるキャラであり、みなの毒舌な冗談のはけ口であり、同時に、迷惑をかける者、場の雰囲気や局面の機微を察しない者、仕事を覚えない者、努力も反省もしない者、失敗を糧にできない者、間違いを繰り返す者、考えないため仕事を台無しにする者……そのような存在だった。
その彼に馬鹿にされました。
彼に仕事の指示を出したのだが、意思疎通ができていなかった。普通の者に指示を出す言葉ではなく、一段も二段も下げて指示を出したつもりだった。彼にとっては「言われた通りにやった」ことでも、間違った理解であり、大きなミスを犯したのである。それは、およそ考えられないようなミスだった。しかし、直属の上司は私であり、責任を取るのも私なのである。
頭に来ました。
ちゃんと聞いていたのかと、怒りを堪えつつ、まずは冷静な口調で彼に尋ねた。「当然です」と言う。えらく感情的で反抗的な口ぶりに驚いている暇もなく、続けざま、「むしろ、ちゃんと指示をしたのかよ」と言われた。タメ口だった。彼が居直ったことには動揺せざるをえなかった。しかも最後に、「お前の言うことって、いつも、こっちのセリフなんだよ」と言われた。
暴力の衝動に駆られました。
手が出そうになった。しかし理性が勝った。着火すれば一発ではすまなくなるだろう。会社では責任を取らされるうえ、警察沙汰や裁判沙汰などなりたくはない。反抗した部下の声が大きすぎて、皆がこちらを見ている。視線が私に注がれている。度量の広さが試されていると思った。かといって、この者を許すことはできない。絶対に許せない。後々面倒にならないよう、この程度の者なら、周到に恫喝し、長きに渡って苦しめ、おのれが言ったことの何倍にも及ぶ仕置を練りに練ることもできるだろう。少なくとも、一旦はそう考えておのれを諌め、考えごたえのあるイジメを今はふところに温めて、上司たる者かくあるべき、といった態度を演じるのがここでは得策ではあるまいか。
「そうか、すまなかったな、落ち度は私にある」
そう言ってみた。思ってもいないことを、演技して言ってみた。それがいけなかったのだろうか。つまり言い方が胡散臭かったのだろうか。いかにも不誠実な波動が、音程や音調にあらわれていたのだろうか。落ち度は私にあると言ったあと、部下は、「分かればいいよ」と言った。まさかの返しだった。無能な部下になぜか屈服した上司、一喝することもできず、なぜかカッコつけようとした上司、ミスった人、スベった人、やらかした人、そのような雰囲気が漂い、そのような眼差しが注がれていることに戦慄し、慣れないことをしたばかりに事を仕損じたのだと悟るまで、恐れと後悔と怒りとがないまぜになった赤面が私を襲い、この状況の後始末、どう収束すべきかということに対して、知性が麻痺し、頭が真っ白なまま、「いいからもう座れよ」と、なぜかタメ口が様になってきた部下に肩を叩かれる始末であり、……その後のことはほとんど記憶にない。どうやって家に帰ったのかすら全く覚えてないのである。しかし、これが突然のトラウマになったことは事実のようである。
パニック障害だと言われました。
会議のとき、いつものように皆に向かって話をしているさなか、いきなり声に詰まり、口がわななき出し、話せなくなった。いわくいいがたい呪縛が押し寄せてきて、恐ろしくなり、何に恐れているのかすら分からなくなり、自分の恐れに恐れを抱き、つまりパニックになり、ガタガタと震えがとまらず、恐怖が感染したのか、それにつられて会議室の面々も顔が引きつっており、どうしてよいのか分からないという恐怖の波が場の全体を飲み込んだ。
一人の勇敢な青年が立ち上がり、「大丈夫、大丈夫」と言って私を支えた。窒息せんばかりの会議室の外へ、彼が親身に連れ出してくれるに任せるよりほかになかった。この勇敢な男は、私に威勢よく反抗したことで自信を得たばかりの、あの部下であり、しっかり立場は逆転していたのである。もはや何が現実なのかすら分からなくなって、思い詰めて心療内科へ行ってみた。パニック障害だと認定され、薬をもらい、飲んでみたものの気が楽にならず、やがて電車に乗ることすら怖くなり、いつどこでパニックが発症するのか分からないため、会社を休むようになり、眠ることもできず、こうなったのもすべてあいつのせいだという思いでいっぱいになり、取り返しのつかない状況と、抑えのきかない怒りとで、気が狂いそうになった。俺は終わりだと思った。
誰も感情の扱い方を教えない
この話の概要
半分ノンフィクションであり、ここに出てくる上司は、今は重度の精神障害に苦しんでいる。「妻が薬剤師だと勝手に色んな薬が飲める」と、まだ軽い頃は自慢気に語っていたが、最後に話したとき、もう何の薬も効かないと言って怯えていた。彼は実際は経営者であり、収入を成績と結びつけるならば、業界では指折りに有能だった。しかし、いくら有能でも、おのれというものに無能である場合、人生はちょっとしたことで壊滅的になる。
道具に支配される人間
感情であれ出来事であれ、どうにかしようとするとき、間違いを犯していることを知らねばならない。出来事は単に出来事だが、人の場合、出来事は価値観によって裁かれる。単に起こることではすまされない。良いか悪いか、正しいか間違いか、知的かつ感情的な判断が入り、それらと同一化することで、人はそれらに支配されるようになる。統御されていない思考と情緒が、実際に肉体を動かすのである。
怒りの場合
怒るべきだ、という判断材料がある。怒らなければならないと、そのとき人は正当性を感じている。怒りという、自身の判断は正しいと信じる一方で、倫理的もしくは霊的には正しくないとも感じ、怒りをどうにかしようとする。すると、エネルギーは思考に従うため、注目が注がれた怒りは、考えれば考えるほど力を増し、抑えのきかないものになり、最終的には怒りという対象に人はコントロールされるようになる。つまり、そのエネルギーがどこかで何かへ変性されたり発散されたり転換使用されないかぎり、怒りを爆発させることになる。
簡単な処置法
諦めることである。結果を手放すことである。なぜなら、対象はコントロールできないからである。他人はコントロールできない。出来事はコントロールできない。結果はコントロールできない。コントロールできないものをコントロールしようとすることは知的ではない。このような普通の知性さえ無効化させるのが感情である。
今回の物語の場合、彼は無能な部下に日頃から腹を立てていた。なぜもっと努力しないんだ、なぜ失敗を繰り返すんだと言って怒っていた。この場合、彼は感情をはさまずに部下に工夫して指導することはできても、結果はコントロールできない。コントロールできないもの、結果がどう出るか分からないものに対して、その結果自体に執着することは、エネルギーの浪費である。自身の指導や正しい働きかけに対して、相応の結果を求め期待することは、エネルギーの浪費である。自我のコントロール下にないものに力んでも無駄であることを本当に知るならば、結果には無関心になるはずである。結果を自分に都合の良いものにしようという企みや執着はなくなるはずである。彼は、愛と思いやりから、するべきことをするだけであり、その結果はどうでもよいものになるだろう。
霊的な処置法
魂と融合することである。すると、自我にはこの世界だけが唯一の現実だが、融合者には単なる錯覚となり、内なる世界が真の世界、唯一なる意識になる。これが本質的な解決法であり、これは到達可能な段階の意識である。モナド意識は難しいにしても、魂意識は達成可能なものである。なぜなら、我々は熱心に瞑想できるからである。この場合、世界に肉体を置きながら、意識は背後の一なる無、揺るがない平和と安らぎ、途絶えない愛と喜びの世界に固定されることが可能である。
問題は、これが難しいと勘違いされていることである。
我々は、肉眼が映し見せる世界が本物という洗脳から自由になることができる位置にいる。世界は、聖人が言うように、「単なる奉仕の場」になる。なぜなら、自分が大丈夫になるからである。大丈夫というのは、一なる愛に帰ったということであり、その愛は、迷っている意識を愛に、迷っている個我を全我に、自分が終わったと思っている偽我に真我を知覚させるという内なる欲望に従うものである。いま、人は自分という感覚に焦点を当てている。なぜなら、自我のフォースと同一化しているからである。瞑想を続けるならどうなるか。高位の存在、高位のエネルギーへの感受性が発達する。この大いなる神聖な流れと同一化できるようになる。この流れは本物である。この流れをどうにかしようとするのが自我である。本物の流れを、どうして、存在もしない偽我が変えることができるだろうか。実際、我々にはコントロールできないではないだろうか。
内なる流れを知ることである。この神聖エネルギーを知ることである。あるがままを知ることである。存在に由来する至福を知ることである。彼だけが我々の面倒を見ることができる。彼が父である。彼が命である。このことを知り、道具の不備によってフォースに動かされ不協和音に苦しむのではなく、道具を掌握し調律することで本来意図されている音色を出せるよう、愛に鼓舞された意志が行為されるよう、流れ自体に道具を合わせることである。これが波動の一致であり、法則との一致である。これだけが、唯一にして簡単なる神聖奥義である。その方法を具体的に教えるのは、我々の日々の瞑想である。