我を砕く

不幸な人は、幸福を信じているから不幸があることを認める知性が必要である。幸福感は、個人的な反応であり、分離した自我の目標でしかない。それは何のコントロール下にもない。環境や出来事に応じて生じる、自我の情緒的な反応にすぎない。不幸もまた同じである。希望や、達成や、意気消沈や、苦悩といったものも、個人の利己的な反応でしかないという認識に早く到達すべきである。つまるところ、自我にまつわる一切の反応は無視されるべきである。これらの保育的な感覚に捉えられている人間を魂の位置まで引きずりあげるのは誰をしても困難だからである。したがって、われわれの瞑想もまた、個人的な目的のために利用されており、それゆえ自我が脳に対して瞑想を行うことが見逃されている。これは主に、瞑想が魂とマインドの科学であることを教える兄弟よりも、瞑想を人間の幸福の手段として伝えるビジスネの方が世間では優勢であるためである。なぜなら、人間は個人的かつ利己的な関心によって衝き動かされるものだからである。

先日紹介した瞑想方法は、低位人間のこうした情緒性質や想念傾向を阻むものである。意識へ立ち返ること、つまり意識していることを意識する知性は、それ自体が自我の活動を一発で遮断させる。世界や三諸体を材料として組み上げられる物語や自作自演の傾向を一発で終わらせる。一回でも意識へ立ち返るという功績は大きい。平均的な人間は、今のところ一生涯、無意識である。われわれが信じている意識は、低位人間のあらゆる無統御の活動、つまり思考や情緒などによって汚染されている。そこに、それらの形態を纏っていない、純粋な意識の認識はまるきりない。そのため不幸なのである。違うものを見て自分だと主張しているのである。純粋に意識であるとき、そこには喜びしかないことをわれわれは認識する。それは低位人間の幸福つまり情緒とは何も関係がない。

おそらく、瞑想の方法というより、瞑想がいかに個人とは関係がないか、ここから教えられねばならないのだろう。個人の反応に頓着するがゆえ、われわれは魂との整列を阻まれており、外側で自らに何が生じようが関係がないという「孤立した」境地に達することができない。すでにして喜び(魂)、さらには、すでにして至福(真我)であるという生得の財産を認識できない。「それ」が、精神(マインド)に覆われているためである。したがって、マインドの領域内で瞑想が行われており、瞑想と個人の幸福が関係づけられて世に広まっている。瞑想は、そのような個人に魂が働きかけるものである。個人がそれに気づき、おとなしくなり、魂を知覚するようになって、静けさのなかで魂と合一するならば、そのときはじめて霊つまり真我の啓示に至る。

このような文章を読んで生じる反応、すべてが個人的なものである。それらは乗り越えられねばならない。「どのようにして」と言うことで新たな物語を作り上げようとする個人を知的に無視することで、われわれは静かにならねばならない。静けさによって人間意識を超えていかねばならない。そのためには、自我が作り上げた「大切な」目標をすべて捨てることである。われわれの知識はすべて誤解の産物である。われわれは到達しているが、いまこの場所に大きな何かを置いている。それが道を阻み、錯覚させ、別の精神の領界へ連れ去るための詐欺の道具となっている。これらは、自身で見られるべきである。他人が言うからではなく、誠実に自身の熟考のなかで省みるべきものである。今までは騙されていた。自分に騙されていた。その自分とは何なのか、と言わせる知性に到達しなければならない。いかに独学の能力が必要であるかが理解されるだろう。いかに質問に頼ってはならないかが理解されるだろう。世の中には十分にヒントは与えられている。あとは怠惰なそのマインドを内へ向けさせるだけである。しかし、多くの者がこれをしないだろう。ずっと、質問や答えを求め続けるだろう。そうして物語を構築しつづけ、それに主演しつづけるだろう。題名はつねに「無知」である。それは、準備ができていないということである。準備とは何なのか。つまり私を連れまわす欲望とは何なのか。私を追いかけてくる恐れとは何なのか。そもそも、私とそれらは一つであり、同じものではないのか。このような自我破壊つまり二元破壊の思考に耐えられる「者」は少ないのである。

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