改悛の秘跡

或る人が、努力を教え叩き上げる教師に、努力不足を理由に、プライベートな秘密を公衆の面前で明かされ辱められたと言った。傷ついた心で一所懸命に努力をしたが、抑え込むことはかなわず、その欲望、その恋しさ、その寂しさは爆発してしまい、自分は霊的以前に人間として悪だと感じて病み、周囲に不幸をもたらす者となり、家族は離散し支離滅裂な人生に置き去りとなり、苦悩の解決がもはや自死であると結論づけられようとしていた折り、たまたま私の文章を読んで明け渡しの意味を知ってほんの一時は感銘を受け過去記事を渉猟したものの、依然として自分は低位我とか自我であることに暗然とし、私の文章もまた空理空論でしかなく、結局は努力なのではないかと思い直していると言われる。

率直に言う。私は、それが悩みとか苦しみという感覚を味わえないから、どっちでもいいと思い、そこは本質的な重要点ではないと思うにも関わらず、私もかつてそのような意識状態であったことを覚えているのである。感じられないだけで、覚えてはいる。だから言えることは、第一に、どうやったら低位我が高位我の意識に入り何とも関係なくなることができるかである。しかし、高位我の意識に入ることも、低位我の努力があるときには無理なのである。しかし次が重要である。最初は、低位我での努力がいる。そのようなものはないが、自分が努力していると感じることしかできない時期がある。絶対ではないが、普通はその道を苦しみながら通る。分離した意識で、自分という独立した生命や行為や出来事があるという個人の見解で悪戦苦闘し、瞑想や他の何かに解放の望みを託す時期がある。

正しく努力や瞑想が行われたとき、次に知るのは、三界のあらゆるものに対する関心が欠落してしまった己れ、何をも楽しむことができなくなった己れである。なぜかを一言でいう。真我が良すぎる。自我に構う暇もないほど、真我があなたを全的に癒やし、治し、真我として蘇らせる。だから、この方の辱められた状況を聞いて辛さや悔しさは分かる。と同時に、この苦しんでいる姉妹に私は喜んでいる。苦しまない者は中途半端だからむしろ同情に値するが、苦しむ者は、苦しみを解決しようとするではないか。しかもこの方は、瞑想に解決を求めているから嬉しい。なぜなら、瞑想は嘘をつかない。誰に教わる必要もない。自分一人で、どこでも誰でもできる。すでに与えられている手段であり、当たり前だが無料である。騙されてインドあたりにグルを探しに彼女は行かず、また宗教という安易な慰めに逃避することもなく、おのれでしか探求できない瞑想に対峙しようとしているところに、いたく喜びを感じる。なぜなら、彼女は自ら去らないかぎり見出すからである。

瞑想では、見出さない者などいない。いる場合は、その瞑想が間違っていることを学ぶことで、さらなる理解と前進を獲得するだけである。こうして徐々に瞑想が、自分がするのではないことを学ぶ。これが知るということである。私が肉体人間ではなく、魂であることを人は知る。個人は全体に、分離は果てなき一におのれを知る。少なくとも、罪の意識や恨む気持ちは簡単になくなるだろう。つまり誰の罪だったのか。誰への、そして何ゆえの恨みだったのか。すべては無知から知恵への魂の演出として、実在ではない三界でただ起きていたことを知るだろう。人間意識に未来は見えぬため、その只中では知ることができず、自分が不幸の中心だと信じ感じる時期はあるが、やがてそのような解釈つまり情緒的想念はなくなる。そして彼女は喜びながら、かつて憎んだ者、自らを肉の罪に誘惑した者、そのような私を攻撃したり、笑い、蔑み、陰口で盛り上がったすべての兄弟姉妹を愛するようになるだろう。なぜなら、何の分離もないからである。これが絶対愛の意識である。最初は誰をも許せるようになり、次に分離意識が取り払われ、想念の劇場つまりイリュージョンから自由になる。

「依然として私は低位我」だと仰る。高位我を目指すのはマインドの理論だが、しかしあなたの事実は、その今のA地点が高位我ということである。ただ、感じられないだけである。これは、意識の間隙に瞑想で橋渡しをするまではしばらく続く錯覚である。橋渡しは、つまりあなたと高位我との意識の橋渡しは、瞑想で達成される。どのような瞑想が正しくどのような瞑想が間違いなのか。言えることは、苦痛があるとき、その瞑想は間違っている。そして徐々に、苦痛の定義が拡大される。そのとき、仏陀がなぜ「一切皆苦」と説いたかが理解されるだろう。真我以外はすべて苦痛なのである。したがって、この道は苦痛の道であるが、同時にそれが至福の道であることを見出す道である。それはすなわち、錯覚を取り払う道でしかない。となると、道などないのである。

やがて、あなたは霊的に独り立ちするだろう。数々の教師――それがイニシエートであっても――に幻惑され、その幻惑は自身の未熟さゆえの解釈であったことを知り、誰のせいでもない、あなたのせいでもない、すべては完全にして完璧であるという真の芸術意識つまり美に到達するだろう。これは、秘教徒が我々の太陽系の基軸が第二光線であると言うのと同じで、強烈な愛である。すべての敵は愛で死滅する。すべての恐怖は愛で溶かされる。この愛という言葉は当たり前だが男女の性欲でもなければ流行歌手の詩に出てくる常套句でもない。普通の人間が知らないものだが、知ったときにそれが愛だと理解されるタイプの途方もない解放である。

今のあなたの意識や想念の状態が続くならば、それは破壊的な事象に導く。これは解決できるものだから脅しではない。死んでも収まりそうにない怒りや、あなたがずっと言い感じている許せないという破壊的な想念を持ち続けるならば、それが同類の結果を繰り返し作り続けるだけである。だからあなたは同じ経験ばかりにぶち当たっているのである。努力しても爆発するという意味は分かる。我々の誰もがそういう失敗を繰り返し、爆発を経験してきている。しかしそれは、独立して起こっていない。あなたの責任ですらない。あなたという言葉が意味するのは今その自我だが、それは想念でしかなく、実体が瞑想であなたに押し寄せてくるのは間もない。なぜなら、あなたもまた”意識をこらせば”すぐに分かるのに、その相手へ向けられた激怒や怨恨といった低位の波動でわからないだけだからである。

瞑想を信じよとは言わず、私があなたのような激情家であったとき、それを治したのが瞑想だと話すことにしたい。自分の欠点とか、犯した過ちとか、この類いのものはすべて高位我に治療を受けた。これがキリスト教徒が本来は理解すべき告解における赦しであり、改悛の秘跡である。この神との和解は、低位我と高位我の調和という意味にすぎない。人類のほとんどがこれらの話を理解しないかもしれないが、あなたに与えられたその苦悩という特権を意義深く理解し、活用し、その苦悩そのものの中に神を見出してもらいたい。繰り返し言う。苦悩の中にそれは在る。苦悩の原因を努力で修正し修養するなどという自己満足や逃避ではなく、苦悩をただ受け入れること、ただ見ること、ただ友とすることである。そのとき、誰が苦悩を押しのけようと思うだろうか。苦悩は双子である。よく見ればわたしじしんである。ならば、することなどありもしない。苦悩自体が喜びに変わるのである。これを当たり前のようにニサルガダッタ・マハラジは知っていたため次のように言っている。しかしこれが事実であるかを確認するのはあなたである。

質問者:苦痛は受け入れがたいものです。

マハラジ:どうしてかね。試したことがあるのかね。試してみなさい。そうすれば苦しみには快楽が生み出すことのできない喜びがあることを見出すだろう。なぜなら、苦痛の受容には快楽よりもはるかに深いところへあなたを導くという純然たる理由があるからだ。個人の自我はその本性からして絶えず快楽を求め、苦痛を避けている。このパターンの終焉が自我の終焉なのだ。……苦痛がひとつの教訓と警告としてあるがままに受け入れられ、注意をもって深く見入られたとき、苦痛と快楽という分離は打ち壊され、それらはともに、抵抗したとき苦しく、受け入れたとき快いという体験になるのだ。

ニサルガダッタ・マハラジ「I AM THAT」 p.296
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