自我を放棄する覚悟が必要だ、と彼は表現した。ラマナ・マハルシの「本」を彼は学んでおり、いわゆる「明け渡し」を実践しようと試みている。そのような覚悟がなければ真の明け渡しではなく、真我実現は不可能だと言うのである。本が与える知識を所有するときに起こりやすい錯覚である。
明け渡しは方法ではなく状態ではなかろうか。つまり、彼の言う「真我」が、彼の想像する「自我」に現れて、彼が所有していた想像の産物といずれも関わりをもたせなくなった状態である。状態を実践できるだろうか。落ち込んでいる人が、喜んでいる人の感情を実践しようとしても無理である。落ち込んでいる状態が彼においては事実なのである。このように、自我は自らの状態から逃避しようとする。その状態が嫌だから、別の崇高な状態に至りたいと主張する。これにより、マハルシの本のタイトルにある「あるがまま」を否定しつづけている。
なぜ明け渡す必要があるだろうか。彼の神はそのような「商取引」に応じないだろう。霊的な欲望に支配されているとき、人は何も聞かないし、その欲望に都合の良い情報しか受け入れないし、その欲望がさせることをするだろう。挫折したなら耳を傾けてほしい。「真我」へ至る方法はない。「方法」は別の何かへの移行であり、想念だけが二元でものごとを表現する。自我だから仕方ないと彼は開き直るが、彼が開き直る必要があるのは、自分には何もできないという事実に対してである。そのとき、絶対に彼は何も試みない。
この試みない開き直りの状態がどれだけ心地の良いものか理解されるであろうか。何もする必要性がなくなるのである。霊的な前進などという重荷から解放されるのである。そのとき、何が明け渡しの状態であるか、少なからずの啓示を直観するだろう。彼は明け渡しを実践し、次に失敗し、外へ出ていこうとする自身の傾向を掴む、という偉大な経験を得る。これからも外へ向かって試み(本人は内に向かっていると思い込む)、失敗し、自我としての努力の末路を極めるであろう。あまりにも執着がひどい場合、絶望のあまり自殺する可能性がある。したがって、早い段階でこれらの事実を通し、諦めが教えられていなければならない。諦める者は安全であり、なおかつそれは「真我的」である。つまり、何もしないでいいことへの理解が、明け渡しだったこと知るのである。こうして彼はそれと接触するようになり、この接触がすべての偽りを自然に解き放たせるのである。
彼へ明け渡すのではない。明け渡すのは彼である。なぜなら、われわれが真我だからである。