時間に関する対話

進歩に時間がかかるという、おそらくは事実であることを君は否定している。

事実は解釈である。そしてあなたは、進歩に時間がかかると解釈せざるを得ない。なぜなら、人間の自我意識を見ているからである。それは不完全であり、達成できない苦しみに満ちており、その葛藤に対し近視眼を余儀なくされている。だからあなたの事実と現在は、苦悩である。この者ですら、眠りに落ちると苦しむ自分を忘れるのである。したがって、苦悩や解釈や事実は、あなたが眠りから目覚めた後に自分で決めたことである。

自我意識で苦しんでおり、そこから抜け出せないことは僕においては事実だ。

と「僕」が言っているのである。あなたはその僕ではない。したがって問題は、僕ではない真の自己を僕が知覚できないことである。それは次のように言うこともできる。あなたは僕を手放していない。もしくは僕を手放せない。なぜなら、あなたはその僕を長年生きてきて愛着があるからである。したがって、”僕ゆえに”あなたは僕が静かになった状態を知らないだけである。

一事が万事、僕の意識では僕が主役であることは認める。その僕を克服するために瞑想をしているのだ。そこで君は、瞑想の進歩に時間がかからないと主張したため問うている。僕は十年以上も瞑想している。そして少しずつ成長してきたし、少しずつ理解も深まってきた。明らかに時間はかかるものだと思う。と、僕が言っているだけだ、などと言わないでほしい。

最初のうちは、そういう見方が主流である。だから、本当の初心者には時間を前提に教えることが無難である。あなたのように長年の瞑想経験があり、その上で足踏みと頭打ちを経験している者には、より進歩した教えが必要である。このブログの記事は特定の段階や局面に絞って書かれているわけではない。

では、自我に足踏みしている僕が殻を打ち破れるよう、革命的な理解を与えてくれ。

事の本質は革命的な理解にはなく、あなたが進歩を求めているという現在の誤解にある。求めるものは見つからないだろう。あなたが求め見ているものは、あなたが欲しいものであって、実在とは関係のない架空の想像である。あなたは実在の上で勝手な騒動を起こしている最中である。その現在の自身に気づくべきである。

僕が求めているものは僕が想像するものだ。想像なしにどうして求められるだろうか。この想像力がなかったなら、僕は瞑想をしようと決意することさえなかっただろう。想像力が正しさを判断し、その正しさへ向かおうと僕に思わせたのだ。

人は想像力や判断力を用いて瞑想に到達するかもしれないが、瞑想ではそれらは通用しないのだ。今、あなたに何を言っても無駄かもしれない。欲望が強すぎる。求める気持ちが強すぎる。自我ではなく真我を求める霊的な欲望も、人を殺して物を盗もうとする低俗な欲望も、ともに欲望であることをあなたは知るべきである。それはいずれもアストラル界のフォースでしかない。あなたは低位マインドを使用することに固執しており、何でも頭で考え頭で理解しようとする癖から抜け出せずにいる。瞑想が関与する高位マインドではその頭を使用しないのだ。知るべきことは勝手に自動的に分かるようになる。それは、あなたというマインドの活動が静かになることでしか理解できない隠れた知性である。

フォースとか低位マインドといった言葉には正直うんざりしている。それらの概念は分からない。このイライラする感覚も君ならアストラル・フォースと言って片付けるのだろうが、少なくとも僕は煙に巻かれるばかりだ。

文章は言葉を用い、言葉は制限を伴う。まだ世界に存在しない概念を表すためには勝手に新語を作るか、過去に勝手に作られよく知られている場合はそれを用いることが有用な場合もある。

欲望も気分もアストラル界のフォースであり、あなたの現実的な課題はアストラル体を統御することである。アストラル体が統御されたとき、メンタル体の統御が可能になる。その逆はない。このように、欲望から瞑想を始めた場合、まずは欲望がなぜ霊的に悪なのかをエネルギーの観点から理解できるようになる必要がある。自我が扱うのは低位のフォースのみであり、瞑想に習熟するにつれ高位のエネルギーを引き込み知覚できるようになる。後者が正しい流れである。正しさを最初に知ることで、我々は相対的な悪の意味を知るのである。

ならば、それらを理解できるようになるためにも、時間がかかるのではないか。

自我意識じたいが、時間感覚を前提としたものである。諸体のフォースを高位へ引き上げる力は、時間の中には存在していない。それは現在の力であるが、現在とは概念である。この目の前を見るのはあなたの役目である。今は主にアストラル界のフォースで霧と靄がかかっており、現在が錯覚に覆われているだろうが、いかなる錯覚も、疑い深い目には耐えられないのである。それは確かなのかと見ようとする目を、自我は恐れている。自我を構成するどのようなフォースも見られることを恐れている。なぜなら統御されてしまうからである。これまでそれら悪と呼ばれるフォースが真我つまり霊を物質の奴隷として扱ってきたが、見られてしまうと、錯覚が打ち破られ、主従が逆転してしまうのである。これを自我は恐れるため、あらゆる詭弁や自作自演を弄して、あなたを幻惑し続けているのである。

ひどく幼稚な表現になってしまうが、私が私と思っている者は、実は私を操る悪なのか。

悪ではなく、ただの無知である。それは敵ではなく、真に兄弟である。人間は、三重の諸体しか認識していない。未発達の者は肉体しか認識しない場合もあるが、普通の人間は肉体とアストラル体しか主に認識しておらず、やや発達してくるとメンタル体が主役になり、この三つの体の統一体つまり一箇のユニークなパーソナリティーとして機能し始める。この三を従わせる力と知恵は、魂である。パーソナリティーと魂が融合することで、霊つまりモナドが明らかになる。最後に魂であるパーソナリティーと霊は一つになる。まとめると、一になった三が二になり一になる。ここに物質と霊という二重性のイリュージョンは終焉を迎える。善と悪という概念は三の時代の話であり、瞑想で三が二になるとき、一への展望つまり一切のものの唯一性は現実的な話になるだろう。

待ってくれ。二とか二重性とか、よく意味が分からない。

自分と魂、これが低位の二重性である。魂になった自分と霊、これが高位の二重性である。このブログは明らかに低位の二重性を扱うものである。なぜなら、人類は魂を認識しておらず、肉体かアストラル体かメンタル体で遊んでいる最中だからである。この種の遊びがその無知ゆえに我々を苦しめており、その治療薬が魂であることを伝えることは、多くの人間を高みへ救い上げるものである。というのも、どんな苦しみの中であれ、愛と喜びと至福の意識に入ることが可能になるからである。これは時間の錯覚にいてはならず、現在を見る力が必要であり、その力とは単に錯覚を見る力であり、勇気である。

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