例えば、この書いている方の人間、つまり普通の人が言う「私」は、世間一般が思うところにおいては、人生の一大事といった不幸をこのところ見せられている。しかし、私は喜びしか感じられないことに喜んでいる。この世のいかなる荒波も、私には美でしかない。
パーソナリティーの深い悲嘆と不幸の直中にあっても、魂の喜びを知り感じることができる。これは秘教のパラドクスであり、決まり文句である。しかしながら、それは事実である。学ぶ者はこれを目指さなければならない。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」p.68
私はパーソナリティーと関わっていないから、悲嘆や不幸を感じることが不可能である。怒りや、許せない気持ちや、それによって誰かを害してやろうということもまた不可能である。このような、内なる天国あるいはニルヴァーナをすべての苦しめる兄弟姉妹に伝えたい、伝授したいという願いがあるだけである。しかし、人々つまり個人たちは、あえて自ら悲嘆や激怒や恨みや苦しみといったものを選択しているゆえ、教えられない。これらの自己不幸から永久に自由になることができるのに、訴えかけることがあまり許されていない。それは各々が自ら見出さねばならないからである。
喜び。これは魂の特質であり、整列を達成したときにマインドによって認識される。…熱誠家が関与しているのは幸福であろうか。それとも喜びであろうか。もし喜びであるならば、それはグループ意識、グループの団結、すべての存在との一体化、これらの結果として起こらなければならない。そして、それは結局のところ、幸福に置き換えて解釈できるものではない。幸福とは、何らかの低位性質を満足させる状態にパーソナリティーがあるときに起こるものである。肉体が快適であり、環境や周囲の人々に満足し、もしくはメンタル的な機会と接触が満足できると感じるとき、幸福に感じる。幸福とは、分離した自我の目標である。しかし、私たちが魂として生きようとするとき、低位人間の満足は無視される。私たちはグループ関係に、そして私たちが接触する人々の魂をより良い表現へと導く状態を作り上げることに喜びを見出す。
ホワイトマジック下 p.67
このような「一体化」は、人間が知るどのようなものよりも素晴らしいものである。これ以外に価値のあるものは存在しない。もし我々が融合したならば、二度とその人に不幸はない。幸福もない。というのも、その者はもはや生ける賛美歌だからである。何もかもが美しく素晴らしく喜ばしい。不幸も例外ではない。なぜなら、肉体人間に起こることはすべて正しく、完全であり、法則という恩寵のみが働いていることを見るゆえ、この上なく至福なのである。それは、人を害することを徹底して拒否し、瞑想によって真我のみにすべてを捧げたものにのみ与えられる霊的報酬である。そのような生き方をしてほしい。私はもう何年も書いているから、このようなレベルではなかった時代から知っている人も何人もいるだろう。つまり、あなた方と違いはなかった。一人の探求者だった。だから希望を持ってもらうために言うなら、誰かだけが可能で、自分には不可能だ、ということは、この道ではありえないのである。人々は、ラマナ・マハリシはすごくて自分はすごくないという姿勢にあえてこだわっている。ニサルガダッタ・マハラジの師が彼に言ったのは、あなたはすでに至高の存在であるということだけである。マハラジがよかったのは、純粋にそれを信じたことだけである。しかし、普通の人は信じない。それは自我と個人を維持するためである。
自我は、魂が訪れることでいわば殺害される。死による復活という基礎的なパラドクスである。偽物は、本物によってのみ去ることが可能になる。ところが、まだ学び始めて間もない時期は、自我や偽物で頑張ろうとするのである。それは瞑想とは逆のことをやっている。自我の抵抗で、どうやって真我を見いだせるであろうか。自我は静かにならないといけない。瞑想を続けるならば、徐々に静かになるものである。そして、静かであることが好きになるものである。思考はなくなり、沈黙のなかに至高を見出すだろう。ひとたび見出し、本物のみが真理にして実在であることを理解したならば、もはや人の子に不幸は存在しなくなる。永遠に満たされる。人々が不幸とみなしているような出来事は変わらず起きるであろうが、その者はもはや存在しておらず、内なる善のみが存在しているゆえ、すべてが美しいとしか感じられなくなるだろう。尽きることのない至福に満たされ続けるだろう。私に起きているこの世の物語は、人々が理不尽とか不幸とか思われる類いのものかもしれないが、私はすべてを愛し、喜び、その驚くばかりの完全さに本物の美を見、その美に酔い痴れている。
AがBを好きになったとしよう。しかしAがBに対するひとりよがりな望みを叶えれなかったとき、AはBを恨み憎むようになり、Bをいかにして苦しめることができるかだけを考えるようになる。この場合、Bは何もしていないのになぜか攻撃され続けるという話になる。
この道を目指す者は、善のみに生きなければならず、決して他人を害してはならない。神は無害を望んでおられる。戦争より平和を望んでおられる。個人の怒りより魂の喜びに目醒めてほしいと願っておられる。だから我々は、神が望む神聖な生き方、神性そのものを体現できるようにならねばならない。それは努力ではない。抑え込むことではない。自身の有害な部分を全く気にかけず、そのような偽物に騙されず、瞑想で黙々と沈黙のありがたさ、心地よさ、喜ばしさに向かい、その源である本物にのみ、向かい続けねばならないのである。自分の悪いところを直そうではない。それが適切な時期はあるが、瞑想とはそのようなものではない。本物を己のなかに呼び込む秘技である。光だけが闇を照らすことができる。我々の瞑想とはそのようなものであり、神の法則もまたそのようなものである。そして法則を変えられる者は存在していない。
だから、有害に生きている人に言うならば、それは自分に不幸をもたらそうとしており、何の意味もなければためにもならないことを知ってもらいたい。少しでも有害であってはならない。これが可能になるのは、無害であろうとすることによってではなく、内なる無害、内なる善、内なる完全性つまり神性をおのがうちに呼び込むことによってのみ真に自然に為されるものである。だから勘違いしてはならない。自己努力とは自我の努力である。神は、その自己が真我ではないと教えようとされている。もし本物に至るならば、私と神は同義語になる。媒体にはまだ至らない部分があるかもしれないが、それとは関係なしに、自身が偉大であってよいことを知るだろう。これだけが救済である。
人が接触するすべてのものの中にすばやく真理を見て、自動的に真なるもの、つまりリアリティーであるものを選ぶようになったとき、彼は次に喜びに満ちた行動という教訓を学び、至福の道が彼の前に開ける。このようになったとき、秘教の道を進むことができるようになる。というのは、具体的マインドはその目的を果たし終え、彼の主人ではなく彼の道具になり、障害物ではなく解釈するものになっているからである。
ホワイトマジック上 p.108
イエスは迫害されはしなかっただろうか。彼は完全に内なるキリストを体現した。絶対に無害であった。それは、彼が完全に融合しており、有害であることが不可能だったからである。それゆえ、至福の道がひらかれたのである。すべてが美しい。すべてが愛しい。誰かだけが、ではなく、すべてである。これほどの喜びが世にありうるだろうか。もし世で、世に苦しんでいるならば、帰ってきてもらいたい。私が帰る手段として瞑想に助けられたように、生ける瞑想になってもらいたい。世の中で教えられている瞑想は本物ではない。真の瞑想は、各々が見出すものである。ヒントや基本といったものは概念で教えられているが、実際はそのようなものではない。概念は超越されねばならず、いかなる信念や信仰や信じるものがあってはならない。それは思考と同一化しているだけであり、永遠に至高とは波長が合うことのないものである。
誰かに迫害されようとも、その人を愛することしかできなくなってほしい。愛はすべてを癒すだろう。そうすならば、この世にどうして争いが起こりうるだろうか。瞑想により、みなが内在の喜びと至福に目覚め、それを味わってほしい。不幸の解決法はこれだけである。苦しみの解決法はこれだけである。錯覚に惑わされず、感情や気分や思いといった偽物に騙されず、本物にのみ憩ってもらいたい。そのときのみ、イエスがそうしたように、すべてのすべてを愛せるようになるだろう。皆がそうであることが、神の願いである。