楽しみの識別

意識は、形態や感覚知覚、外に向かう傾向に真の喜びや楽しみはないという事実に目覚め、ここから外に向かう傾向を徐々に撤去させ、霊を形態から抽出するための新しい努力が始まる。

アリス・ベイリー「魂の光」p.381

この世の楽しみには苦痛が内在している。楽しむためには魂や霊が犠牲にされなければならないからである。また楽しみを味わうことによるこの世の代償もそこには包摂されている。人間は快楽に溺れ続けることができないように設計されている。したがって結局のところ、楽しみは苦しみであるという認識が芽生えるようになるだろう。我々の楽しみは、主にアストラル的な楽しみである。学究肌の人ならば低位メンタル的な楽しみが入る。言い換えると、感覚的な楽しみと、知ることつまり知識を得ることの喜びがある。これらは、ともに意識が外へと向かい、外の何かと同一化することで可能になるものであり、それは霊的な犠牲によって成り立っている。つまり摩擦がある。堕落と上昇、退化と進化との間に絶え間のない衝突が含まれている。通常の人間はこれを知覚できない。したがって、彼らには精妙な意味での苦痛は存在していない。この認識されない苦痛の積み重ねがしばしば病気である。認識がないままの場合、また様々な災いや事故といった「歯止め」の機能を呼び起こすことになる。普通の人間は「自制心」という概念で、楽しみ続けようとする自己を諌める傾向があり、本能的に自己を律さないことの連続が破滅に向かうことを理解している。それは通常、経験的な推測である。酒を飲み続ける楽しみに溺れる者は身を持ち崩すだろうという推測である。勉強せずに遊んでばかりいる子供や大人な碌な人間にならないだろうという推測である。とはいえ、通常は仕事や義務を人間は持ち、また金銭的な限界が存在するため、楽しみだけに溺れるということはできず、これによって逆に助かっている。しかし心のなかでは、ずっと遊んでいたい、楽しんでいたいという欲求を抱え続けている。

瞑想する者は、外へと向かわせる傾向つまり三界のフォースと、霊的なエネルギーが別のベクトルを志向しているという事実を発見する。前者は個人の意志であり、後者は神の意志である。このようにして、個人は見出された神の意志に服従つまり一致することで、この世で知られた一切の苦悩や災いから自由になることが可能であることを知る。このとき彼は、「神は素晴らしい」と言う。なぜなら、その領域は天上的な美と喜びにあふれているからである。よって、ラマナ・マハリシが言うように、「集中することが徐々に楽しみになる」。初心者は、集中の意味が分からないため、集中しようとすることが集中状態に導くと考えている。彼は何に集中しているのだろうか。依然として外のものである。真の集中とは、内なる魂を見出し、にも関わらずマインドが外へと向かわせようとする傾向があるため、それを都度、魂へと向け直すというものであり、これが瞑想の本質である。

瞑想つまりマインドの統御。これによって、魂が低位の器を統御し魂の領域の啓示を可能にするメカニズムが創造される。

魂の光 p.386

魂の領域の啓示とは、メンタル界を超越して少なくともブッディ界に自らを固定させうるというI AMの啓示である。最初は、I AM THATという認識に根ざしたものかもしれないが、THATは余計なものになる。これは、第四イニシエーションと関係している。神智学徒がコーザル体と呼んだ魂の器がなぜ破壊されねばならないのかに関係している。ジュワル・クールが「やがて魂を迂回するようになる」と言った事実と関係している。とはいえ今重要なのはこの話ではない。魂としてマインドを統御することで魂の領域と行き来できるメカニズムつまりアンターカラナが創造され、まだ創造されていない平均的な人間が知らない意識領域へと随意に入ることを可能にさせるのが瞑想の最初の目的であるという事実認識が我々には重要な話である。なぜなら、このとき初めて、我々はこの世の楽しみではなく、この世が超越された後のリアリティーの世界、その領域の喜びや楽しみに安らぐことが可能になるからである。その意義は、三界における霊と物質という相反する意志の調和であり、結果としての平和である。

人間の長い長い転生周期の大部分において重要なのは、経験である。楽しみがあり、楽しんだがゆえの苦痛がある。幸福が経験され、次に幸福を壊す兆しが現れ、それに対する恐怖が経験され、抵抗が生じるも、脆くも壊され、不幸が次に訪れるというサイクルを経験する。幸福と不幸を行ったり来たりするのが無知な人間の特徴である。これは知性が一時的に無効化されているためである。私にとっては、この世の知性はこの世で必要なだけであり、そこでのみ知性であって、本質的には知性ではない。真の知性は、我々の無知やイリュージョンを破壊するものである。それは集められた知識によってではなく、そのようなものも含めて破壊する一箇の知恵である。魂の領域を知ることでブッディ界に到達し、別名であるその直観界において直観を知り、真のその知性によって、あらゆる三界のイリュージョンは消し去られる。

誰が楽しみを識別するだろうか。この世の楽しみと、超越された領域での楽しみを、誰が識別するだろうか。もちろん弟子の悩みは理解している。ずっと後者の領域に入っていられないという悩みである。このため、完全には自我ではないものの、多少の自我意識に戻され、つまり進化段階に応じた魂の吹き込まれ具合における個我意識にてこの世での活動の時間を余儀なくさせられるという悩みである。彼が学ばなければならないことは、たとえ戻されてこの世で活動しなければならない時間ですら、魂の喜びと楽しみを維持するということである。どのようなときに魂の喜びや楽しみは維持されうるのだろうか。彼の行為が奉仕だったときだけである。霊的な意義を持つ純粋な行為であったときだけである。個人ではなく全体の目的に自らを埋没させたときだけである。自由意志ではなく神の意志に力が捧げられたときだけである。そのためには、明らかに日常でも瞑想状態が維持されねばならず、個人の要求に屈することのない魂の強さが必要である。これが第三イニシエーションまでの弟子の課題である。

第三イニシエーションの前に行わなければならないことは、個人的な観点を全体の必要に完全に溶け込ませることである。そのためには、魂が具体マインドを完全に支配することが必要である。

イニシエーション p.124

しかし、これが簡単であれば誰もがすでに真我を実現している。日常生活の個人意識のときに、また惑わされることになるため、個人的な楽しみを志向しようと条件づけられるのである。また、必ずしもそれが悪いわけではなく、適切な場合もあることが、この問題をさらに難しくさせている。どのようにしても螺旋的にしか上昇できないことを弟子は悟るが、これを言い訳にできないことも、彼はすでに身を持って体験してきている。……この世の用事・事情・限界の時間になったため、途中で申し訳ないのだがここで記事を終える。ある程度は書いたから十分だろう。

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