結局のところ、我が兄弟よ、無私無欲に生きようと努めたとき、私たちはフォースを正しく分配するようになり、それが調和的な関係につながる。見習いの弟子にとってこれは、物質界において無私の活動が課されることを意味する。受け入れられた弟子にとっては、すべての利己的で自己中心的な情緒から自由であることを意味する。こうした情緒のうち、自己憐憫と自己劇化はその顕著な例である。イニシエートにとっては、利己的な考えが全くなく、エゴの思考において劇化がないメンタル的な態度を意味する。
アリス・ベイリー「秘教治療上」 p.406
- 娘が死にました。あと一月で十五歳でした。深い悲しみと苦しみに、耐えることなどできないでいます。もう一度娘に会いたい、謝りたい、そのような悔しさ苦しさから死後の世界に関するスピリチュアル系の書籍・ブログなどを読み漁るようになり、その中であなたの過去の記事を読みました。そこでは、聖者はたとえ子供が目の前で死のうとも「無反応」であると書いてあります。これは断じてありえないことだと言い切れます。実際に体験してみてください。それは不可能です。私は絶対に立ち直ることができないでしょう。また、娘の無念を思い、娘にしてやれなかったことを悔い、娘にしてやれたがしなかった自分の醜さを呪い、立ち直りたいとも思いません。私は自分を罰することを望み、一生をかけて償い続けるつもりでいます。
魂意識に入れる者でさえ、極度の悲哀やショックを受けた場合、一時的に深く入れなくなる可能性はあり、入ったとしても出た後には悲しみが襲ってくることはありうる。一つ聞きたいのだが、あなたは泣いただろうか。おそらく泣いた、涙を流したと思うのである。そのとき、気持ちよさを感じなかっただろうか。
- 読んでいて時々、あなたを一種の馬鹿のように感じてきましたが、この質問はまさにそれに当たります。いや、さすがに怒りを覚える。言葉で表せないほどの悲しみに泣くとき、それが気持ち良いとはどういうことか。
泣いてすっきりしたと言う人がいる。これを霊的に言い換えると、アストラル体に栄養を与えてお腹がいっぱい、満足という意味である。あなたは深いところで、娘の死を劇化する必要がないことを知っているが、この知性は激情によって今かき消されている。魂と融合せぬかぎり、あなたは記憶に執着することになり、亡くなった娘さんを見ているときも、娘さんの記憶を見ているのである。こうして劇化が始まる。あのときこうしていればよかったとか、自分の無力を謝りたい、おのれに罰を与えたい、などの類いの自己劇化である。この劇の主人公は娘ではなくあなたである点が肝である。この自己中心性をあなたは深いところで気づいている。ただし情が勝っている。この情を噛みしめるとき、あなたは泣くことを欲するのである。泣きに泣いたあと、あなたはしばらくすっきりするだろう。情を噛み締めて満足したのである。
- 呆れ返るほど、ひどい、侮辱的な言いざまだ。あなたはおそらく経験者ではない。たぶん子供で、幼稚で、人生の恐ろしさをまだ知らない。
我々は、抜け出しにくい病的な劇化に陥る前に、死や生命、そして己に関心を持ち、瞑想の技術を身に着けておくべきである。真の瞑想者はもはや個人的な感覚がないか希薄であり、たとえ子供が目の前で死のうとも、喜びと至福に満たされている、あるいはそれが正しい状態であることを決して忘れない。ここに倫理的な憤りや問題を感じるのは個人であり、魂は時代や文化や個性が示す道徳観とは一切関係していないし、そのような出来事にも全く関心を持っていない。あなたの感情は、波動で言えば低いものであり、魂の領域に影響を与えることが不可能な低さである。あなたは娘さんの亡骸を見ただろうか。あるいは「抜け殻」を見ただろうか。何かが去った。去ったものが原質であり、命であり、真の娘さんでありあなたであるところのもの、真我である。
- 娘ははっきり生きているように見えたが火葬を強いられた。それはまだ生きている顔だった。決して抜け殻ではなかった。あなたは娘が死ぬような経験をしたことがある上で言っているのか。
少し待ってもらいたい。「時間が解決する」と人は言う。それは、言い換えれば「記憶は薄れるだろう」というものである。あなたがいくら懺悔の生涯を決意しようが、時間とともに記憶が薄れることで、あなたは大なり小なり癒やされる。しかし現在、あなたは「癒やされたくない」状態である。娘の死という現実に浸っていたい状態である。それは、アストラル体の命令に従順であり、アストラル・エレメンタルの欲求を満たすことが悦びであることを示している。あなたは意図して後悔や懺悔や自己憐憫の世界を欲している。娘さんは、「悲しまないで」と願っているかもしれないのである。逆に、「悲しめ」と思っているだろうか。娘さんは、あなたの悲しみに悲しんでいるのである。どうかこの自己劇化つまり自作自演に気づいてもらいたい。このような誘惑に父親が負けてはならない。
- それで、自分では体験したことがあるのかどうか教えてもらいたい。
断る。いかなる不幸自慢も、また経験の証明も行わない。あなたのアストラル体に利することを行わない。正念場である。あなたがどのような状態であれ、真我だけが真実であり、見出されねばならない価値と責務である。起こること、あるいは映像、それに付随する感覚は、現在のあなたに対して相応しい課題であるための演出でしかない。それは難しいテストでなければ意味がなくなる。誰も死んでなどいない。実在ならざるもの、実際に存在していないものだけが消え去る定めにある。難題だが、乗り越えねばならない。しかし、あなたでは勝てない。あなたは記憶の奴隷である。低位我とはそういうものである。過去・現在・未来を包含する一なる魂だけが救いである。彼の意識のなかで、あなたは永遠なる生命とその完全性を知るだろう。すべてに神の美を見つけ出すだろう。それは感傷ではなく、観照によって知られるだろう。
- そのようなレベルにない。瞑想体験がないわけでもない。しかし瞑想は、私の人生の最大の悲劇に無力だった。これが真実だ。
翌年、あなたは立ち直り、深い悲しみの経験を経て、己が魂を見出すかもしれない。強い揺さぶりが発見にはしばしば必要である。逆に、平凡な生涯や満たされ続ける人生で見出すのは至難である。このようなときこそ、霊性は見出され、その途方もない癒やす力が知られねばならない。私には、その扉の直前にあなたがおり、決断を迫られている様子が見える。勝つのか、それとも、その「償い」という、娘さんが望んでもいないであろう道を己のために選ぶのか、霊的分岐点をあなたが識別できるものと私は思う。