死にゆく猫

私は運転しないから基本的に車では助手席に座っている。昨日、高速を下りたあたりで猫が轢かれていた。私は見ていないが、運転していた者が動揺していた。「まだ生きてるよ。誰が助けるの」と言っていた。後ろからクラクションが鳴らされたため、動揺していた者もそこを過ぎ去らねばならなかった。

私はこの世界を現実だと見なしていない。人々における全ての問題の根底には、この世界が自身にとって唯一の世界であり現実であるという態度がある。私は個人を放棄したため、同時に世界も放棄された。それは重要な意味を持つものではなくなった。それは私には関係のない世界になった。猫が死にかけているのに関係がないと言っているのだろうか。助かる見込みがあると判断された場合、私は即座に助けるだろう。実際に犬に関しては何匹も助けてきた。こうして、私が助けるのを誰かが見るかもしれないが、私はその肉体とは無関係なのである。よって、助けようとした犬や猫が無惨な姿で死のうが、手術で助かろうが、何かしら起きること、その現象自体が私に影響を与えることはない。私はこの世の話に生きていない。

この話に自由というもののヒントがある。この世のなにものにも執着していないことが自由である。それは、関係がないから執着がないのである。言い換えると、我々は個人を超越した存在であるゆえ、関係ないのである。もし関係がないならば、束縛されることもないため、自由である。自分さえ自由になれば猫が苦しみながら死んでもいいのだろうか。人類が飢えて苦しんでいてもいいのだろうか。もし真に自由を知るならば、あなた方の現実は実際には起きていないことを理解するだろう。映画で主人公が死にかけているとき、あなたはポップコーンを食べているかもしれない。それは映画と現実を切り離して見ているからである。

起きていることが事実であるならば、例えば昨日だけでも、私という個人に対して多くの事が起きた。そのうちの三つは脅迫の色さえ帯びていた。人間とはそのようなものである。三人の方が私を力でねじ伏せたいと考えたようである。それらのいずれも、自己中心的な考え方から来る勘違いが原因であったが、自己中心的な者すなわち自身が一箇の肉体であり、この世を唯一の現実と見なしている意識たちに対して、私が何を言えるであろうか。私は神に貫かれているため、有害性で応じることは不可能である。何が起きても美しいとしか感じないし、素晴らしいとしか思えない。敵意や憎悪は誰に対しても存在できず、すべてを愛している。ゆえに常に自由でいて至福である。これらはすべて長年の瞑想つまり整列によって勝手に達成されたことである。

もしこの世だけが現実であるならば、神は馬鹿である。幸福な者がおり、その一方で不幸な者がいる。あらゆる格差、違い、優劣が存在する。この世が事実であるならば、それを創造した存在は、無能であるどころか、悪意に満ちてさえいる。ところが、神はこのうえなく善であるため、この世という経験の世界を通して、すべての死にかけた猫たちを助けようとしておられる。「まだ生きてるよ。誰が助けるの」という問いへの答えは、神である。

この神を我々は知らない。この世にかまけて、この神を知るための生き方をしている者は極度に稀である。真の自己実現とは、神との融合である。神の意識に入るためには、個人とその所有物はいずれも偽物として見抜かれ、錯覚として無縁になっていなければならない。本物にのみ没頭することが瞑想でありヨーガである。この世で何が起きようが、ちょうど寝ている人が気づかないように、別の意識状態にある者には何の意味もない。この世は経験の場であり、経験を必要としている意識たちにとってのみ一時的に重要な領域であり、彼らはマインドを通して世を眺めるゆえ、見える世界という意味で彼らには実在だと感じられ、瞑想者のようにマインドを神に従わせた者においては、見える世界の背後の神しか見えなくなる。それはとりもなおさず「わたし」である。

この世に責められるに値する者は一人もいない。したがって、何も裁く必要がない。もし裁くならば裁かれ、責める者は責められ、悪意を表現する者は悪意を経験させられるだろう。このような人類への処方箋は神である。しかしながら、人類の幼き者たちにとっては、神よりもまだこの世の経験が重要であるため、このような文章が彼らに届くこともなければその必要もない。秘教徒が第一イニシエーションと呼ぶものが起きたとき、このような文章の内容が彼や彼女にとって意味をなすようになるだろう。まだ分からない部分もあるが、分かる部分もあると感じるだろう。そして、神の意識すなわち真我を求めようという熱誠が燃えたぎる意志となり、実現が人生の第一目的となるだろう。このとき、しばらく瞑想したりして、やっぱり無理だからやめよう、などと思っても帰る場所はそのときないだろう。それは、大人の世界が厳しいからと言って子供に戻れることもなければ、子供の世界に居場所もないのと同じことである。

誰が助けるのか。常にだが、神である。何度失敗しても、神が助けてくれる。立ち上がれそうにないときも、神が助けてくれる。それは、神を覚えている者にのみ事実であるだろう。だから素直であることは重要である。神を求める者が、あらゆる無意味な修行をこなし、またあらゆる無意味な行為者としての努力を行い、自分という無知による傲慢さが見出されたとき、その自分で在ることはできなくなり、自我の力は急速に減衰するようになり、それによって、意識は神と神性の顕現を認識し始めるだろう。最初から何もする必要はなかったことをそのとき知るが、経験の領域、そしてカルマの領域での義務が終盤にさしかかるまで、自我は元気であるゆえ、瞑想で静かになれなかったり、問題を抱えることになるが、瞑想できないとは思わないでほしい。続けるならば神が訪れるようになる。神の力が上から流れて来る。彼が勝手に我々を破壊するのである。元気な自我もおとなしくなる。それは彼の力によるものである。最終的に、彼と自分が同じものであるという認識に至る。こうして融合が自然な意識になり、分離は消滅し、個人や世界や経験は興味の対象から外れる。この世で死にかけていた者が蘇るのである。しかしそれは肉体としてではない。

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