人が熟するとき、静けさを求めるようになる。静かであることが心地よいと感じるようになる。静寂という波動に感応できるようになる。それまで諸体の物質は、ラジャスとタマスに支配されてきたが、サットヴァを知覚できるようになり、清浄さに勝る心地よさはないと感じるようになる。こうして人は沈潜し、瞑想という孤立と統一のテクニックにて、不純との交わりを断ち、ゆえに魂を知り、人知を超えたその平和、その至福に沈黙する。全くすべてが美しい。存在するだけで輝いている。なにものに比ぶべくもない。喜び、愛あふれている。
沈黙行とは、自我意識しか知らない者が行うナルシシズムの一種であり、肉体の寡黙にしてマインドの雄弁である。沈黙しているのは、内なる者である。自我意識が、彼を知ることで自然と静かになるのである。言い換えると、魂のエネルギーが心地よいため、自我を織りなす諸体のフォースはそれに安らぐことを覚え、喜ぶのである。
おしゃべり。噂話。談笑。口論。批判と裁き。……これらは、自我という分離意識のときのみ可能なエネルギーの浪費である。賢い者は、饒舌や多弁を好まない。そのような口の動きへ導く低位我のフォースは克服されている。言わなくても良いことを口で言う者は多い。言ったこと、言葉という表現に応じて、結果を刈り取ることになるだろう。したがって、オカルト的に、しばしば口は災いの元である。瞑想にエネルギーを向けようとする者は、あまり話さないことの意義を知らねばならない。それは、個人に限られたエネルギーを保存するとともに、何へエネルギーを向けるかという、絶え間のない知的な選択である。言い換えると、自身というフォース体を、高位我のエネルギーに委ねるという、明け渡しである。
口の統御が自然体になったとき、頭の統御に入ることができるだろう。想念とマインドの統御を本格化させることが可能になるだろう。弟子の口から発せられる他者への言葉は、必ず動機が愛である。弟子とは、話さない者、エネルギーを保存しうる者、保存したエネルギーを内なる一者の意志へと解放しうる者であり、したがって彼は瞑想時にOMを発するかもしれないが、彼の言葉は常に聖語である。それは、聖なるエネルギーの表現である。なぜなら、彼は自我から話すことはないからである。
この世の教えに今のところ欠けているのは、諸段階における詳細である。イニシエートの本はいくつかあるだろう。それを普通の人が読む。普通の人と、イニシエートの間には意識段階に違いがある。知るべきこと、達成すべきことは、段階に応じて異なる。基礎すら世の中には普及していないのが現実である。このことに関して、友人は次のように語った。人の子が聖者の書物を読み、それを試みようとすることは、赤子が跳び箱を超えるより難しい、よって彼は自らの足で立つことをまず覚えるべきであると。霊的な独り立ちは、学ぶ者が最初に習得すべきものである。頼らないことではなく、頼らないでよいことを知ることである。なぜなら、教師はわが内におられるから。「私」がすでに教師にして知恵だから。偽我ではなく、真我が教師である。パーソナリティーではなく、魂が知恵である。必要なことは瞑想で知ることができる。通路が開通したならば、常に知ることができる。そのため、真のイニシエートは全知なのである。
口において、頭において、行為において、エネルギーの浪費を慎み、すべきことのために保存しておく習慣が必要である。重要でないことより、重要なことにエネルギーは使用されねばならない。この識別、この選択は、日々における我々のテストである。瞑想にも多大なエネルギーが必要である。このことについて考え、生活と態度を見直し、より良き媒体になるためのヒントに自ら至るべきである。それは日常にて実践へと移され、習慣化され、かつてのものは新しいものへと置き換えられ、我々の振動は高まるだろう。この聖なる放射体の基礎は、つねに沈黙なのである。