我々は「意識」という言葉を使うが、通常、その言葉の背後には「自分」が存在する。意識を認識している者である。この者は、人間においてはマインドである。よってマインド意識が自我意識であるのに対して、この者が消し去られてもなお存在するより広大な認識する者をやがて我々は理解する。この、我ならぬ我、これは様々な言葉で命名されているが、本来は命名してはならない。概念化した瞬間、それを捉えることはできなくなる。前者の我つまり自我と、後者の名づけえぬ我の違いを、ここでは一点に集約したい。それは「法則」に対する無知(つまり法則の対象化という分離)と「法則そのもの」という点である。
やや稚拙な表現をするならば、法則は、神の目的を体現するためのものである。自我は法則を知らず、法則に反して生きている。これは無知と呼ばれている。法則に違反することで、自我を確立し続けている。したがって自我の破壊は、法則の認識にかかっていると言えるだろう。自我は、「私と法則」というかたちで分離して対象化する。名づけえぬ我においては、私と法則は同一である。これが、人間という媒体が純粋な通路になった状態である。法則が、かつては個人であった者を通して自然のままに働けるようになる。人間は、このような神性の通路を提供するために、おのれに取り組んでいる。おのれという諸体、諸体を構成している物質に取り組んでいる。彼という三重のパーソナリティーから余計なもの(低位亜界の物質)が取り除かれたとき、彼というかそれは、神性の表現の通路にして媒体でしかなくなり、そこに人格や個人性といった非法則が混じることはなくなる。この通路は、独立して考えない。独立した自分を前提に思考しない。自我は、彼が消し去られた後の名づけえぬ我へと取って代わられる。この存在は、彼自身である法則とともに在り、たえず法則を土台とし、その法則そのものが、尽きることのない言語を絶する美の境地、法則の完全性を認識させるのである。
法則は、神の目的を遂行させるものである。超人間は、神の目的の媒体であり、その媒体にはかつての個人はいない。個人とは、神・生命・法則・エネルギーが一時的に歪曲された状態であり、マインドがそれに対し、特定の分離し独立した個人という錯覚をかぶせるのである。高位と低位、神性と人間、上と下を一直線につなぐ通路、これがアンターカラナと呼ばれるものであり、この神の垂直は、世界においては神の水平のためのものである。言い換えると、エネルギーは、神の目的のための力であり、それは神の意志である。これが個人的に歪曲されない状態を、無知な人々は個人的な視点から解放や自己実現や悟りと呼んでいるが、事実はそのようなものではない。我々は分離していない。人間が名づけえぬ我を現在に認識したとき、自身と法則、自身と神が一体であるという認識が成長するだろう。人類のみならず、すべてが真に兄弟であり姉妹であるのだという認識が育つだろう。重要なのは魂ではなくモナドつまり霊になるだろう。我々は一つの生命である。
では法則とは何なのか。言葉に置き換えようとするとき、知的な人には嘲笑の対象にしかならない表現になる宿命にあるが、それは神の秩序であり、その秩序においてのみ、神の目的は顕現される。ラマナ・マハリシが「世界のことは世界が面倒を見る」と言ったのは、この意味においてである。それはイエスの物語では次のように描かれている。
だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。……
信仰の薄い者たちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
ここで言う「異邦人」とは自我であり個人である。また「神の国」とは真我であり「神の義」とは法則である。この福音書の話もまた、子供騙しのような趣があり、自身の欲得や自身の苦悩に終始する錯覚した自我たちを個人的に癒やすためのもの、やや原始的な教え方である。二千年後の知的な現代人が思考するとき、真我を求めれば自我に何かが与えられる、という趣旨の文脈には根本的な矛盾や破綻があることが認められるだろう。自我には何も与えられない。だから、私が自我の時代に最も世話になった支える言葉は、たぶん「諦める」である。これが神の国の波長と一致させたではないだろうか。自我は、自身に良いものを求めている。自身に不都合なものを嫌っている。これは神の意志の歪曲である。神の法則に我知らず違反するものである。なぜ、このような錯覚や無知が生じるかといえば、焦点が自分にあるから、というただこれだけのことである。自分に焦点を合わせず、何に焦点を合わせれば良いのか、これを教えるのが瞑想であり魂である。瞑想は、法則の違反を知るためのものである。何が「神の義」ではないのか、つまり何が霊的に善であり霊的に悪であるのかを、波動の観点から内的に理解させるものである。言葉や概念ではなく、また結果や現象ではなく、原因そのもの、つまりは源、生命という純粋エネルギーそのものとの融合による混じり気のない純粋意識が、生命の働き、生命という意志を、魂の特質である愛や喜びといった観点から理解させるものである。この理解は、法則の理解であり、命という偉大な価値の理解である。