瞑想するようになってから、社会生活に困難を感じるようになったという質問について。バランスが分からなくなった。仕事や人付き合いとの両立が不可能に思え出し、果ては会社を辞めて無職となり、恥を忍んで三十を過ぎた男が親の脛をかじるまでになり、実家に戻るも近所の眼が痛々しく、外を出歩くのも億劫で、瞑想を真剣にしているとは言うものの、気づけば無職のひきこもり、気の狂れた世捨て人と言われなじられるまでになり、失敗した人生という感覚に圧倒されている、過去の栄光は過ぎ去り、今は将来への不安でいっぱいなのに、今日もまた蓮華座を組み、成果を感じられない瞑想に打ち込んでいる、そして雑念や後悔や恐怖が勝って背筋を伸ばす気力もないまま、果たして瞑想を続けていてよいのか分からず恐ろしい疑念に苛まれている、これが逃避した人間の末路なのかと自分を責め立てる毎日なのだと血の滲むような言葉で仰る。
無職……。なんと素敵な響きだろうか。それに比べて、職業の肩書に矜恃を抱きしがみついている臆病者の、なんと多いことか。死すべき肩書から自由であることを恥じる必要はない。起きたこと、出来事、行為、これらは重要ではない。自我の壊滅的な欠点として、永遠、完全、完成という視点からではなく、その場の境遇や一つの人生といった一瞬にも満たない些事や現実感に対し、極度に近視眼になって物語に没頭するというものがある。あなたの職業は何ですか。そう人から聞かれるし、書類に書くよう求められる世の中にあって、堂々と自分の職業を述べたがる者が幅を利かせる一方で、無職はすなわち怠慢、無能、馬鹿、愚行の結果であると見られ、小声で言わねばならないと思われている。喜んで笑顔で大声で自分は無職ですと言う者は足りてないとみなされる。彼は真我の至福や一体性の愛の流れのうちにあり、何も所有していない知恵に喜んでいるかもしれないのである。いずれにせよ、コントロールできない運命を嘆く時間を慎み、外的な事象や惨めな感覚に惑わされず、その情緒的な想念の背後に真の霊的自己が存在しており、彼はあなたの自作自演を見てはいるが、全く無関心であり、苦しんでおらず、これほどかと言わんばかり愛と喜びに満ち溢れていることを知らねばならない。
バランスには価値がある。しかし、できないことは仕方ないではないか。自我のときは、できるように努力することを教える方が無難であり、その者の錯覚に合わせて、個我として、比較や競争のなかで努力させ、多少の成果を挙げさせることが彼の精神の安定を保つために推奨される時期もある。そして、残念ながらほとんどの者はその時期に該当している。しかし、推奨は決してしないが、真我を見い出す者は基本的に命がけである。この世の、あるいは肉体の命ではなく、死ぬことのない本物の命を知るための、絶対に揺るぎようのない意志や決意がある。これは、そういう意志や決意を持とうとすることで持てるものではなく、その意味で推奨しておらず、実際は、完全なる確信、接触や融合の現実や事実から来るものであり、その前は、どうしても自我としての努力ということにはなるだろう。誰でも経験するが、完全に暗闇である。瞑想に保証書をたずさえていた者はいない。いかなる暗闇も、また苦悩も乗り越えてきて、それが真の自分と何の関係もないという、完全なる無職、つまり完全なる無色という光に照らされたのである。もはやこの者は何の色にも染まっていない。完全な純粋を知ったのである。
どこに無職を恐れる必要があるだろうか。無職に卑屈を覚えるのではなく、無色という意味で自身を信じてもらいたい。詭弁だと嗤われても、どうせやがて自身の内にて証明するのだから、この一瞬にも満たぬ生の事象を前向きに無視し、本当の逃避は行為ではなく、その原因や影響を与えてくる力を見ないことであることを知り、すなわち真我以外が逃避であることを覚えておき、目に見える世界から、エネルギーやフォースといった波動の世界、結果ではなく原因の世界を知ってもらいたいと願うのである。選択は責任を持って自身で行う時期があり、またその時期に該当するかもしれないが、どんな恥も受けて立ってもらいたい。保証するが、何も感じなくなるだろう。何も感じていない人を発見するだろう。そして、自分や他人がないことを知るだろう。そこに焦点を合わせることがなくなるため、この分割された肉体たちが個人や独特の命だという錯覚から自由になることができるだろう。選択、識別、常識、努力、これらは自我の時代の道具であり、情緒を抜きに単に知的に活用してもらいたいが、瞑想は、それらすら乗り越え、唯一なる色、真の無色をおのがうちに露わにすることであり、それが難しくないということ、いわゆるコロンブスの卵のようなものであることを証明し、また一人暗闇から無色へ到達した者として、無色の意味や素晴らしさ、大切さを周囲に伝える側に回ってもらいたい。この闇という闇を自ら貫くことで、光になってもらいたい。