無限力

無気力とは何なのか。気力が無いことならば、その気力とは何か、そして何ゆえに気力が無くなるのか、を人は知らねばならない。

本来、気力や無気力の背後に、無限力が存在しており、神と一致した者とはこの無限力に生かされている者である。ところが、人間には内在のダムがある。精神というダムである。この精神が無限力を堰き止め、センターの流れを阻害し、精神が元気であるならば、自身で扱える範囲内だけ無限力を受け入れ、気力に変換して活用するが、世の中で傷ついたり精神的に弱まったりすると、精神というダムが機能不全に陥り、自我のための力すら放流できなくなり、つまり外的に活用できなくなるがゆえ、活用できぬ分の内的貯水が腐敗し出し、その者に鬱病とか、何かしら気の流れの不活用という不健全さによる病いに冒されるのである。

簡潔に言うと、気力の背後に無限力があるが、精神やマインドというダムから気力の流れに生きる場合、その気力は、ダムに依存するのである。このダムを撤去させるのが瞑想である。精神やマインドという無限力を堰き止める装置がないならば、自我は決壊し、無限という神の生命力のダイナミックな流れが溢れんばかり、堰を切って押し寄せてくるであろう。この流れこそが本物であり、尽きることのない永遠にして無限のいのちである。

病気で肉体がぐったりしていようが、嫌なことが起きて鬱っぽくなっていようが、意識の焦点をそのような個人ではなく、いま存在する我そのものにチャンネルを合わせることができるならば、肉体は無気力でも、生命自体は健康で元気でなおかつ至福である。

我々は、死ぬ運命にある人間を自分だと絶対にみなし続けている。そして、そのまま死ぬ。賢き者は、死ぬ個人を無視している。個人が元気でも無気力でも関係なしに、無限という溢れんばかりの生命力そのものと関わっている。それができるのは、精神やマインドというダムを、魂を介した神の力で破壊したからである。実際は破壊というより、おとなしくさせたのであり、この世で活動する場合は道具として活用することが可能である。

何人かこれまで友達であった者たちが、鬱病になったり、何らかの精神の病いに冒されてきた。ある者は、風呂にすら入れないと言っていた。全く気力がないと言うのである。そしてひたすらに苦しんでいる。

もし、これを読んでいる人で似たような症状があるならば、それは治療可能であると私は言いたい。病気や病的状態は、ダムすなわちセンターの不具合に由来しており、エネルギーが適切に、つまり法則と一致して自由に流れていないことを意味している。気の流れを整えるとは、エーテル体内のセンターつまりチャクラの機能異常の正常化であり、これがあらゆる病気の治療の基本である。これは確実におのれに応用可能であるゆえ、常に弟子は、正しくエネルギーが流れている状態に器を保つ努力をしなければならない。この努力とは、正しい方向づけを怠らないこと、別の流れつまり低位の波動に引っ張られて、法則という真の流れから外れぬことを意味しており、それは自然や自由への方向づけであるゆえ、いかなる摩擦も苦痛も伴わない努力である。この努力の源は一つには意識とパーソナリティーではあるが、実際にはそれらを動かしている真の源は真我である。したがって、あらゆる意味を込めて、マハラジは、「すべてはひとりでに起こるだけ」と言ったが、これは自我には受け入れがたい話であった。

自我は、「運命は自分が切り拓くもの」という愚かな信念にすがりたがる。なぜなら、思い通りにできない場合、生の制約は恐怖を意味するからである。いま、何かが怖いという人はいるだろうか。誰にでも、常に恐怖心が背景にある。それが強いときだけ人は恐怖心を知覚し、怖いと言う。私が勧めるのは、そのようなとき、「本当にそれは怖いのだろうか」と自らに問うことである。「本当に私は怖いのだろうか」。このようにして、常に恐怖へ対処しようと焦るのではなく、恐怖自体を見るのである。本当に私は怖いのだろうか。こうして恐怖自体をありのままに見る時、恐怖などありうるだろうか。しかし、もし恐怖をなくしたいから恐怖を見るというならば、それは恐怖に動機づけられているのだから、より恐怖を大きくするだけである。必ず、魂の位置から、眉間を通し、ただ恐怖を見るのである。すると何もないはずである。あるのは喜びだけではあるまいか。

したがって、この舞台なる人生劇場は自作自演である。ないものを作り、作ったものに自ら踊らされ、それなりの演技をする。背後では魂が無関心に眺めているだけである。この魂に意識を明け渡すならば、何を恐れるであろうか。昨日の質問者のように、嫌なことをされて腹が立つとき、それは何かを怖がったということである。あるいは昨日誰かが、インスタをやめたいと言っていた。やめればいいのに、やめきれずにいるのである。それで、やめることで何が怖いのかと聞くと、怖いとかではないと言われた。では、何が困るのかと聞くと事情がいくらか話されたが、その事情は明らかに恐怖による事情ではないのかと聞くと、確かにそうだと認めていた。このように、あらゆる事情の背後に恐怖があることに人間は気づかないのである。言い換えると、恐怖にさえ対処できれば自由であることを知らないのである。

だからクリシュナムルティは言った。人類は、兵器など、恐怖に何で対処するかには頭を使ってきたが、恐怖自体にどう対処するかについては決して考えてこなかったと。インスタを突然やめたら皆にどう思われるか心配だ、と言うとき、評判や自分に対する誤った噂話や、どんな目で見られ、どんな考えを抱かれるかを恐れている。恐れから自由な者は、この世の全員に嫌われようが至福である。なぜなら、いかなる個人とも真我は無関係であり、あらゆる個人の背後の一として無限に愛溢れ、恐怖を貫き、害を為す者さえも愛そうという意志に支配されており、ゆえに恐怖ではなく愛に守られ、喜びに喜び、精神に堰き止められる以前の、広大普遍の穏やかで平和な湖面に、太陽という神の光と美だけを映し出し、味わい生きているからである。

嫌なことがあって無気力。これは個人に生きているからやめたほうがいいという警告である。そのような、数年や数十年で死ぬ個人になぜ生きるのか。なぜしがみつくのか。私は、自我意識であったとき、自分のことを、こいつはだめだと思った。第一光線に誤った形で生きていたがゆえ、行くところすべてに破壊をもたらし、自らも破壊されかけていた。だから、こいつはもうだめだと思った。それで、真面目になろう、正しくなろうと思うよりほかになかった。度重なる警告から学び、警告を素直に受け取ることにしたのである。そしてインスタをやめるといったレベルではなく、一人になる必要があり、孤独を目指し、霊的学習と瞑想に明け暮れ、こうして深淵を覗いたがゆえに深淵から関心を持たれ、深淵の先の光と愛に包まれ融合したのである。つまり、私は私なるものに飽き飽きし、匙を投げ、扱いきれぬとみなし、関わりを断ち、自我ではなく真我にひたすら没頭し、内在の教師を発見し、彼からだけ学び、この世の裏技に精通したのである。すると、もっと精通している方々が存在することも理解し、平伏す思いであった。なぜなら、その方々もまた、前は我々のように人間意識であったが、艱難辛苦を乗り越え、高みへ至り、愛そのもの、慈悲そのもの、美そのものとなられた方々だったからである。この世では、子供の頃から、誰かに頭を下げたり、屈したり、平伏した経験が一度もなく、私は最強ではないのかと勘違いしていたほどの者が、決して勝てないと観念したのは愛である。ここに、敵や、悪や、恐怖に対する唯一の対処法の秘密がある。つまり愛である。

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