自我は、それ自身の病気性に苦しんでいる。この苦痛を理解できない場合、人生が楽しいと言う人になる。いかに外的に恵まれていても、ただ生きているだけで苦痛であると認識するならば、それは良い病気である。この良性の自我の病気が真我である。なぜなら、この病気の苦痛とは、いわば、外へ向かう自我と、内そのものに充足する真我との摩擦のことだからである。
人間も、病気の時は活動よりも休息を良いものと見なす。ちょっと休ませてくれと言う。気力や体力がなく、動くのが辛いから休みたい言う。気力や体力は自我の生命力である。この生命力が強い場合、楽しんでいようが悩んでいようが、個人的には元気であることを知らねばならない。自我としての楽しみ、自我としての悩み苦しみ、好調と不調を満喫している。だから個人的な質問を受けても、元気だなと感じるだけである。個人の質問なのである。真我なのに。
良性の自我の病気つまり真我に見舞われる場合、自我は活動できなくなる。思考を含めて、行為はいずれも苦痛になり、存在そのものに休ませてくれと言うことになる。人間の病気ならば睡眠が必要になるが、自我の病気つまり真我の認識は、睡眠を苦痛と見なす。と言うよりも、睡眠もまた自我の活動なのであり、自我の行為であり、したがって自我に真我を忘れて意識が途切れることが苦痛なのである。だから夢は苦痛である。夢を見てもいいが、そこに意識の連続性がなくてはならない。夢を見ていることに気づいていなければならない。それは明晰夢とは関係がない。それは自我のものである。真我は、三界の一切の背後の観照者であり、観照と観照されるものを超えた絶対であり、低位マインドでは理解不能な実在である。
人間は、頭を鍛えるのは好き。簡単だから。人は、何のために頭が良くなりたいのだろうか。なぜ頭がいいと思われたり、良い大学を目指したり、三才から将来に怯えて勉強しなければならないのだろうか。いくら低位マインドを鍛えて現世的な脳の明晰さを得たとしても、アストラル体の養分を供給するためだけに生きていて、辛すぎはしないだろうか。知的な人は、下半身の遊びに溺れるよりも、脳で知を探究することが悦楽であると言う。この知的な人自体が下半身であることに気づくべきである。この人、つまり低位マインドもしくは低位我がおのれの無能を知り、高位我に黙すことが本来人間の目指すべき知性と知ることが、人類にとって遠い未来であってはならない。
低位我で生きるから、生は悩みの連続であり、苦しみである。自分で問題を作り出し、それに自分で苦しむ病気に苦しんでいる。自分病だが、世の中はこの自分病を礼賛している。こんな辛いことはしなくていい。人間は罪の許しを請うが、すでに許されており、無限の慈悲の只中に在ることを認めるべきである。誰に批判されようが、馬鹿にされようが、怒られようが、関係ないではないだろうか。自分を含め、個人は無関係である。それはたえず争い、対立している。低位マインドを鍛えることは、初期段階では分離を生き抜くために利用され、分離した自我を満足させるため、恐怖から逃れるために利用され、混乱と混沌に投げ入れられている。ゆえに精神を病むのは正常である。分離と真我が関係ないことを警告するのが精神の病である。
瞑想。これは何も要求しない。どんな批判もない。世の中では駄目な個人と見なされていても、あるいは魅力的で有能と見なされていても、この個人と無関係であることを知るのが瞑想である。完全なる平等社会。なぜなら分離がないから。全部が私であり、そのような思考すらもない。これを我々は愛と呼んでいる。自我は、男女の一体化を愛欲と呼んでいるが、真我は、森羅万象の唯一性を愛と呼んでいる。だから、人間という個人競技に疲れた者は、すみやかに瞑想し、全我へ帰るべきである。これ以上ない美と平和と安らぎが約束されている。宗教は天国と地獄を述べるが、それは単に真我と自我のことである。これほどの地獄を自我は生きていて、未発達の頃はまだ世界で生きられる。しかし発達してくると、自我はもう無理。わたしは真我であると言うようになる。こうして瞑想し、あらゆるものの土台であった大地が知られ、人間という家は破壊され、土に還る。家並みはまだたくさん残っており、それぞれの家にそれぞれの明かりが灯り、競い合い、家を守るために近所づきあいをし、群れと郷に従っているが、やがて嫌になるだろう。家を守ることに疲れ果て、壊そうと思うようになるだろう。自殺のことではない。肉体の自殺は苦悶が続くが、心の自殺は真の自己である魂によるものであり、それは幻影の破壊であり、知恵である。
このように、文章は無力だが、瞑想つまり沈黙は雄弁ということになる。