無題

人は風景を見て美しいと言うが、その人もまた風景の一部である。個人と風景は、ともに魂からすれば季節であり、天候であり、色彩であり、移ろいゆく変化の表現である。世界や部分はめいめいが好きなように振る舞うだろう。その意味においては自由である。しかし万物の霊長である人間だけが、自由意志のなかに不自由を見ることができる。それが自由ではないこと、自分が限定されているという苦しみを知覚することがいずれは可能になる。ならば、何が限定しているのであろうか。この問い自体がもはや瞑想である。目が、外から内へ向かおうとしている。

事実は、何も限定していないし、何も限定されていない。役に入れ込みすぎた俳優が、一時的に自分を忘れる体験をしているが、物語が終われば自分に戻る。役を演じている最中は、役と物語に限定されるだろう。個人も役が終われば普遍に還る。自我と世界が終われば分離はなくなる。個人に最初に起こることは、個人性の喪失である。私、という感覚が難しく感じられるようになる。かつての私が部外者に感じられることに気づく。あらゆる既知の客観と区別のなかにおらず、有限の表現を失いはじめる。風景であり変化であった者は、生まれも死にもしない存在の本質として、時間や空間を前提とするものではなく、永遠性を統御しはじめるのである。……

ときどき起こることだが、ここに至って書く気がなくなった。普遍性や存在性の領域を言語で汚すことはできないからだろう。私は考えうるものではない。あれでもこれでもないと述べるときだけは、真実を語ることができるが、描写しようとするとそれは虚偽になる。それは新たな限定になる。嬉しくない。書くためのエネルギーは流れなくなる。だから本日は終了する。

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