「真我探求への欲望だけは唯一許される欲望だとラマナ・マハルシは言っています!」と語る者がいた。クリシュナムルティなら苦笑いするだろう。この自我の言う真我探求に欲望が含まれているうちは、それが霊的欲望であれ、つまり霊的野心であるゆえ、その個人的な野心が邪魔をして、真我は理解されないままだろう。彼は実際のところ、真我を探求していると言うよりも、自分の幸福を目指しているか、自分の不幸から逃れたいだけである。多くの初心者における「真我探求」なる表明は、自我による自我拡大のための巧妙な隠れ蓑にすぎない。
これでは進歩しない。進歩を妨げているものを正視せず、拡大しようとしているのだから。
「真我を覆い隠しているのは自我である」が最初の教えであるが、自我とは我々のことではないのか。「自我を終わらせよう」と自我が言った、という文章はほとんどふざけている。言った自我は、自身と自我が別物だと錯覚しているのだろうか。私が自我である。私が自我意識であるなら、私にできることはすべて自我の拡大につながる。自我の力で行為するとき、それは自我のエレメンタルを養う行為であり、すべて自我拡大へと通じ、光ではなく闇に奉仕している状態である。
「自我=私」を構成し、また動かしている力が諸体のフォースである。それらと同一化したとき、「私が行為者である」という感覚に堕落する。その「私」がもし不在ならば、エネルギーが純粋に働くことが可能になる。見習いの終盤から第三イニシエーションまでに行われるのは、自我を構成もしくは更生するフォースを魂のエネルギーに従わせ、調和させるというものである。このようにして低位我は高位我になる。「自我=私」だった者も、「私=魂」になる。この図式で消えたのは「自我」である。「私」ではない。アイデンティティーは残る。
では、この過程で自我を消したのは何か。自我という騒動を起こさせる力(フォース)をすべて従わせたのは、魂のエネルギーである。諸体のフォースが魂のエネルギーと一致したとき、「自我の私」は消え去るのである。自我としての私という感覚を知覚すらできなくなる。これを書いている瞬間に、再びちょうど朝日の美しい光がまぶしいばかりに押し寄せて来た。この朝日は、その無敗の光によってことごとく闇を蹴散らしてきたばかりである。魂はしばしば太陽に喩えられる。魂と繋がりさえすれば、自我意識という闇は高貴なる光の中でことごとく追い散らされるだろう。それは光によって見えもせず感覚することもできなくなるが、ちょうど太陽が沈むように、周期的に弟子は自我(闇)の復活に耐えねばならない。第三イニシエーション後は、「沈まぬ太陽」が顕現する。それ以前は、昼と夜がある。
ずっと夜なのが普通の自我である。「現れぬ太陽」がこの時期の特徴であり、ゆえに迷い、苦しむ。この暗黒時代を通し、何が暗黒なのかを識別できるまでに進歩したとき、人は真我という太陽が昇ることを信じ、願うようになる。しかし、それまで太陽を見たことがなく、何万という生涯においてずっと夜であったか、夜を昼と勘違いしてきたため、「夜を昼と信じている錯覚状態」を拡大することが真我探求だと最初は思い込む。真我ではなく自我の幸福を拡大する過程の一環に真我探求を取り入れようというのである。ほとんどの探求者がこれに属しているが、その事実には気づいていない状態である。多くの方は真面目で善良だが、その自分を放棄するという勇気はまだ持たない。それは最初は勇気だが、錯覚が少しでも溶けるならば、犠牲は喜びでしかない。それは犠牲ですらない。真の真昼のために夜を捨てることは、その者にとっては念願であり、自発的なものとなる。結果、彼か彼女は好きで静かにしているようになる。言い換えると、自我は見捨てられる。
肉体が高齢の者、博学な者、この世で地位を持つ者などは、自分が信じてきたものがそのまま防具となり、「自身を成立させうるもの」になっているため、信ずるものを脱ぎ捨てることの恐怖に耐えられず、通常は聞く耳を塞ぐ癖がついている。その者が瞑想者であろうが、ニュースの辛口コメンテーターであろうが、防具で武装し己の強さを誇るよりも、その間違いを正視せねばという心の清さが勝るとき、初めて夜が明ける可能性が芽生える。言い換えると、「私=自我」がどのような者であれ、そこに間違いや錯覚を認めるとき、自我には昼も光もないことを知るだろう。何日か前、有名なアメリカの男が、「私は全てを手に入れたが、常に心は空っぽだった」と言っていた。自我の昼を富とみなした者の末路である。「我=イケメン」だとか、「我=ハリウッドスター」だとか、一時的なロールに錯覚させられた無知による不幸と苦悩の連続が、この者に真の富を見分ける機会を与えたのである。この者がこれを契機に真面目になるならば、二度と、自我の昼と真我の夜明けを見間違うことはなくなるだろう。自我の昼を危険とみなす賢さが永続するであろう。そのとき、自我は己の真昼に目をつむるだろう。そして誰もが欲しがるものですら「私とは関係がない」と言うであろう。
「我=真我探求者」という最後の闇がある。「我=弟子」や、「我≠覚者」も同じ闇に属する。いずれもパーソナリティー的な側面を本物とみなしており、我々で言えば生涯ごとのロールとの自己同一化への揺るぎない信念である。正しい精神的姿勢における瞑想は、魂のエネルギーを流入させる。この力が個人を圧倒するようになるにつれ、それまでの自分に対して、「私はそれではない」という感覚が発達するようになる。こうして、エネルギーとフォースを識別できるようになる。何と同一化すると間違いで、何と同一化すれば正しいのかを、法則の中で理解するようになる。通常の人は、この世の行為や思想で善悪を測り、善人と悪人の根拠をパーソナリティーの性質に見る。このような測定は霊的な世界では何の意味もない。我々が顕現の世界を貫く背後の法則と一致したとき、神に由来するエネルギーを善と言い、それに逆行するフォースを悪と呼ぶことが分かるだろう。これが善悪の起源である。霊性か物質性かの違いである。進化か退化かの違いである。野蛮と理性の違い、理性と衝動の違いである。マインドを超越した最初の世界が純粋理性の界層つまりブッディ界である。我々の三界は衝動が支配し、人は衝動に条件づけられ、霊的理性を持たないで経験を積む界層である。経験を積んだあと、理性や知性が発達し、識別力が育ち、さらに瞑想に入った後、それら具体的知性すら捨てられ、低位マインドは高位マインドに支配されるようになり、高位マインドすら踏み台となり、直観と純粋理性のブッディ界、仏教徒が「無」と呼ぶ真に主観的な領域(意識)が開示される。その無、その純粋さが、真の霊的太陽である真我の夜明けをもたらす。
だから惑わされてはならない。我々が自分と呼ぶものはもうすぐ死ぬ。死なないものが生きている真の夜明けの領域では、いかなる二元も存在しない。偽の真昼では、昼なのに雨だったり晴れだったり、不幸だったり幸福だったり、金を持ったり失ったり、好かれたり嫌われたり、若かったり年取ったり、元気だったり死んだり、万華鏡のように無常である。ここまで偽を見せつけられてなお、偽にしがみつく愚か者であってはならない。我が内に永遠なるものを見い出したとき、一切の恐怖は消え、微塵の不安もなく、無限の栄光に「我=全」として喜び、そのとき我である神の意志に貫かれ、「我=善」が達成され、その善なる意志が目指すものが明らかになり、そのとき、
イニシエートは意識には全く関わらず、自らの意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。イニシエートはそのとき、接触の感受性を増大させることや、周囲の状態に対する自らの意識的な反応には夢中にならずに、大計画への奉仕という科学の持つダイナミックなエネルギーにますます気づきつつある。この違いを認識できるようになるのは、パーソナリティーと魂の意志が融合され、その混ぜ合わされた表現が神の大目的の燃える光の中に消え去ったときだけである。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション上」p.55
