弱い自我が強くなりうるだろうか。自我は、一つの世界しか知らない。われわれが見ている世界である。その中に存在すると考えており、その中で彼や彼女といった個別の人間として世俗的もしくは霊的な理想や幸福を達成するのが目標だと考え生きている。実際は、生かされている。動かされている。この外なる世界で、彼は自分が独立した存在であると感じ、自身という意志決定機関の長ないしは神としておのれを任じ、自由意志を喜び、自由行為をしているが、彼はただ世界というホログラムの一部でしかない。風景を見て人はきれいだと言うが、彼女自体が風景の一部だということに気づいていないのと同じことである。
自我は瞑想を通して外なる世界を克服する。ゆえに強くなる。世界や自分という無知が取り払われることで強くなる。そして、強い者が実在である。王と民がいるのではなく、王しかいないことが王国である。瞑想を通し、瞑想できない自我が、瞑想している内在者を見つけ、彼との融合にて王国の啓示に至るだろう。それは何ら神秘的なものではない。それどころか、人は本当の自然を知るのである。仮に、川の流れが自我意識を持ち、好き嫌いを持ちはじめ、別の流れを欲望するようになっても、その流れを変えることはできず、いくら流れに抗っても自身の思い通りにはならないことを知り、最後には流れが法則であり、流れが正しく、流れの中に自分などいなかったことを知り、流れに溶け込むのである。こうして大海へと融合するのである。
この世界しか知らないという無知が地獄である。今日、刑務所に行くことになる事件があなたに起こるかもしれない。冤罪にして無期懲役。ニュースではあなたの顔写真が出回り、悪の所業として人々の怒りを買い、かつての同級生たちが「昔から何を考えているか分からない人でした」などと言って回るなか、家族もあなたを一家の恥として、泣いて世間に詫びる姿が映っている。わが家は終わりだと老いた父は言い、育て方が間違っていたと老いた母は自身を嘆き、若い嫁は抜け目なく子を連れて去る。あなたは家へ帰れなくなる。家族はなくなる。刑務所が家となり、囚人たちが家族になる。
私にこのような出来事が起きたとしよう。何も感じないだろう。喜んだままである。愛あふれたままである。嬉しいままである。天の王国のままである。下界では、彼に関する嘘が世に出回り、起きたこととは違う内容で事件が語られ、日本国民から一斉に敵意を向けられることになり、ニュースでは彼が事件前に書いていたとされるブログの記事が紹介され、「頭のおかしい者」とお墨付きをいただいたとしても、何かが傷つくことはない。明日から刑務所だと言われても、この平和は乱れない。変化する景色や映像から、影響を受けようがない。なぜなら、わが王国は、人々の世界から永遠に孤立することで、守られているからである。わが王国に立ち向かいうる虚像はなく、出来事という出来事は、わが内にあっては起きてすらいない。事件を起こした人でも事件に見舞われた人でもなく、わが無関心は、世の騒ぎから花のように自由である。
大事な言葉を繰り返そう。この世界しか知らないという無知が地獄である。しかし、この世界だけが自我にとって唯一である。逃れる手段は自殺だと人は言うが、自殺しても本質的に逃れたことにはならない。肉体はないが、あなたのままである。アストラル体とメンタル体は纏われたままであり、依然として統御できない苦悩に苦しみ、自殺の無意味さを知って元に戻りたいと後悔してもどうしようもなく、発狂せんばかりの戦慄に恐れおののくだけである。なんと可愛そうなことか。全員に助け舟を出してやろう。虚像の中で金やSEXなどに喜んでいる園児たちは放っておいて、この世の流れに逆らった無知の代償を刈り取っている時期の者たち、自分の苦しみや悲しみが自分にはもはや手に余る者たちすべてに、救助隊を派遣しなければならない。しかし断られるだろう。われわれはすでに派遣している。ずっと派遣し続けているが、「別の助けをください」と言われている。天の助けではなく、彼らの世界の助けをくれと言われている。われわれは洗脳を解くことに苦慮している。彼ら、彼女たちがしがみついているもののいずれも、全く価値がないことを理解してもらうこと、おのれを含めて手放すという知恵に至らしめる働きかけに、苦戦している。
瞑想する者でさえ、天の助けではなく、自分の世界の助けを求めている。このことが分からないのである。助けを求める自分の声、自身が求める救援物資、これの偽りが知られるまで、彼らは彼らの世界に留まるだろう。自縛霊としてとどまるだろう。洗脳された者は、白を見せても黒だと言う。自分の世界で読んだ本や言葉を真似て、「私は誰か」と何十年も瞑想するより、まず、「私は何も信じない」が先であることが知られねばならない。なぜなら、「私は誰か」は考えることとは関係がないからである。
瞑想における内なる出会いだけが真実であり知恵である。どんな想念が出ようが無視していい。どんな想念があなたの世界に引きずり降ろそうとしても、無視すればいい。どんな記憶が感情を掻き立ててこようと、そのままであらしめればいい。それにただ気づいているかぎり、感情や情緒がわれわれに影響を与えることはできないのである。同一化という誘惑に屈しないかぎり、抵抗しないかぎり、われわれによって作り上げられ、われわれによって養分を得て、あたかも存在しているかのように見えたり感じられたりするものは、死滅するのである。人の子らが空気を掴めないように、偽の世界はわれわれを捉えられないのである。触れることも見ることもできないのである。
まず疑ってもらいたい。頭の世界の幼稚さを知ってもらいたい。どんな知識、どんな観念、どんな信念も、実在においては嘘である。ひとつも信じる価値のあるものはない。神は言う。黙れと。大人しくなることである。静かにしておくことである。流れはすでにして流れている。その一部であるおまえは流れと一体となる。この流れとの一致、波長の一致のみが、おまえに視力を与えうる。おまえから無知を拭い去る。なんということか。一秒かからない。知恵のなかでしたがうこと、身を委ねること、こうして内なる天の王国へと裸で流されて来た者は、資格を得たのである。偽の世界と、真の王国を行き来できる資格である。これは、頭で考えたときだけ難しくなる。私は進化していないとか、罪人だとか、何かしらこの世で勝手に想像している自分の名やアイデンティティーで考えるときのみ、彼はその自作自演によって天への到達を不可能にする。誰が拒まれるだろうか。ずっと呼びかけている声に耳を傾けないのは、どっちかと言うのである。この事実を知り、おのれを瞑想で見直してもらいたい。おのれが引っかかっている信念や執着や恐れが何なのかを知って手放してもらいたい。早く到達し、いつまでも助けを求める側ではなく、助けられる側に入ってきてもらいたい。