我々の多くは理想を扱っている。我々の考える理想をAとするならば、そのAは我々の想念であり、想念が維持された結果としての想念形態でしかない。これは実在とは関係がなく、実在を阻害する障害である。一方で、現実とは我々の目の前にある障害である。この場合、我々は理想に無関心である。我々は目の前の鞘、自身を覆い包む形態がその時点における目の前の現実物であると見なし、その現実形態を扱う。つまり破壊する。これを我々は、魂と共同で、アジュナ・センターを通して焦点化し、方向づけ、延々と現在を扱う。そして、延々と現在に結果を見る。理想を扱う者は、自らのAという架空の結果を求めるため、そのような非実在に行き着くことはない。存在しないものに到達することはないからである。一方で(一時的であれ彼の)現実を扱う者は、絶え間なく結果や報酬を現在に知り、破壊に応じて啓示を次々と受信することで現在に充足する。
理想や希望や信念を扱う者は、自身が作り上げたAという形態に自ら囚われるようになる。つまり執着し、自身で作り上げたものが自身の壁や限界となる。多くの瞑想者が結果を求めるとき、そのAという結果に到達できないという苦痛に見舞われる。Aのために自我で努力し、つまり瞑想は抵抗になる。こうして、瞑想の世界までもが”彼によって”苦痛の世界になる。彼が知るべきことは、自身が自身の想念や欲求に縛られているだけだというシンプルな事実である。
形態は常に欲求の結果だが、Aは、性質上アストラル的な欲求の質料で組み立てられている。この種の欲求は、瞑想と関係がない。瞑想を妨げるだけである。我々のほとんどが、これほど単純なことに気づかず、時には何十年、時には何生涯にもわたり、実在ではなく、自作の形態を追い求めているのは、我々において悲劇である。瞑想はメンタル界と関係しているが、彼らが関係しているのはアストラル界である。
質問者は言う。ある聖者は、悟りや真我実現への欲求だけは例外的に崇高なる欲求であると言ったと。つまり、質問者にとって、この言葉はある種の救いになったのかもしれない。どんな救いだろうか。それは自我の救いである。私は非難しているのではなく、障害になることを認識してもらいたいだけである。前にも書いたが、そのような欲求が許容されるのは、最初だけである。なぜなら、人間は自身の幸福に適うものへしか振り向かないからである。振り向き、瞑想へと専心できるようになったなら、どのような欲求であれ、それが自身を自身という分離意識へ縛りつける障害でしかないことを認めなければならない。それは、知的に納得されねばならない。考えさえすれば分かることである。
我々が魂と接触できないのは、ほとんどアストラル的な問題である。しかし、瞑想はメンタル的な問題である。最初に、メンタル界の高位亜界に存在する魂と、人間は目覚めた状態で接触するようになる。これが、いわゆるアンターカラナの前半である。後半は、その魂を介して、認識を低位マインドから高位マインドへと移行させる。メンタル・ユニットとメンタル永久原子の間の「橋」である。これらの用語については七つの界層を参照してもらいたい。したがって、一般的なほとんどの瞑想が、メンタル的な瞑想ではなく、失敗する定めにあるアストラル瞑想であることが理解されるはずである。知的なタイプの瞑想者たちには、このような理屈を先に教えることが効果的である。多少矛盾した表現に甘んじるならば、先へ進むために、進歩したいとか、高位の意識を体験したいとか、その種の個人的な欲求を乗り越えることが先決である。
個人は、魂と接触することが最初の目標であり、その後、マインドを、瞑想している魂の振動に合わせることが瞑想つまり学びとなる。個人からすれば、自身と魂との共同作業である。ここには、どのような欲求もない。どのような努力もない。このような瞑想は力みではなく、リラックスである。なぜなら、魂を介した焦点化や集中は、心地のよいものだからである。この充足は目の前にしかない。現在にしかない。Aに到達しようとすることのない現在点にしかない。自作のAを見るのではなく、目の前を見なければならない。この視力は、間違った瞑想を知り、個人的な利得のために瞑想しなくなり、瞑想しているのは内在者であることを知り、彼と波長を一致させ、そうすることで瞑想状態を知り、必然的にアストラル界とメンタル界を征服しゆくにつれ、発達していくものである。
霊的な教師の話はしばしば忘れることが助けになる。それは往々にして我々を縛っている。話は我々において囲い込む壁となっている。瞑想において知っておくべきことは少ない。まず、内側にのみ教師がいることが最初の知識であり事実である。彼が真我である。それを教えるための外的な教師である。本を多く読み知識を蓄える者ほど進歩しないのはこのためである。彼は学んでいると思っているが、実際は知識に阻まれ遠ざかっている。瞑想においては最小限の知識で良い。ただ静かにすることである。ただ自身というありのままを見、どうであれ、そのありのままを許すことである。見ること、気づいていることは、やがて存在することへと導く。融合へと導く。ゆっくりだが、意識は変性され、三界のものからの知識は不要になる。彼が知らねばならないことは、マインドをしずめることで知られるようになる。頭で考えることをやめ、直接的に知らねばならない。これが、低位マインドから高位マインドへと意識を移行させることである。これは秘教的には第三イニシエーションと関係しており、時間はかかるが、ここに魂として到達しないかぎり、我々という内在の美は、無知に甘んじたままである。