人生を生きているとは、どういう意味か。今日があり明日がある。若さがあり老いがある。最後に死ぬ。それまでは骨を折って生きねばならない。普通の人間の人生とはこのようなものである。私がここで言いたいことは、それが時間意識という錯覚によるものだということである。時間という解釈は、知覚という肉体脳を通したときに見られる映像や、感じられる感覚知覚の移り変わりを元にした解釈でしかなく、肉体を含めた三重の諸体が内在の力に包まれ安らいだとき、時間という思想は地獄であることが知られ、この現在、永遠の今としばしば呼ばれる非時間の領域にこそ、真の生と自由があることが見出される。
時間がないとき、人間は初めて解放される。すべきことと思われていたあれやこれ、全てから自由になる。人生とは、時間をかけて何かをすることでも、その期間を生ききる務めでもない。多くの人がこの点において錯覚している。前にも書いた通り、人々の生は、真の自己を知らぬゆえの空虚を、この世の何らかの素材で満たし続けようとする儚く無知な営みである。それは徒労であり、無駄であり、無意味である。時間とは想念や解釈であり、事実ではない。人生で何かを成し遂げる必要も我々にはない。そのような達成の一環として霊的修行というものもありはしない。修行とは常に自我意識の娯楽であり、真理からの逃避である。
なぜなら、人間が次に知るべき意識からすれば、私はすでに私であり、私はすでに真我であり、私はすでに現在だからである。人間はマインドが統御されていないため、見ているのは想念であり、周囲の解釈に合わせて時間を生きていると推測しているが、人ではなく実在に生きるならば、人生は一変し、我々は生ける賛美歌となり、意識は美と完全性に包まれて、存在してきた全ての負担や重荷から自由になる。生命自体を生命は生きているのである。決して、人や時間に生きているのではない。ここを理解せずに、分離して己を高き者と思い見なし、平和運動や政治活動といった戯れでこの世を変えようなどと言ったところで、笑われるだけであろう。盲が盲を導けないことすら理解できないのは、自分に酔っているからである。自我である私を人々は大好きなのである。
このような期間には当然ながら意味があるため、批判すべきものではない。ただ知性が無効化されているため、その無知の中で経験されねばならないことがまだあるというだけである。やがて彼ら――人生を生きていると錯覚している同胞たちは言い始めるだろう。こんな自分は嫌だと。どうもこの生き方は「負け戦」のようだと。幸せになりたかった者は失敗し、幸福と不幸は交互に訪れるものであり、どちらか一方のみを選択し続けることは不可能であり、一方を選択するがゆえ他方があることを知り、相反する対をなすものをアストラル的に統御するようになるだろう。その後、見習いの道に入り、世にありつつも世の喧騒からは内在の知性によって逃れ、静かに目を瞑るようになるだろう。こうして人は人生活動に飽き、厭うようになり、偽の自分ではなく真の己にのみ関心を抱き始める。
かくして真理への道を辿る者は、それが道ではないことを発見するようになる。道はなく、道を辿る時間もないことを知る。この理解は、我々が使用している具体マインドでの理解ではない。マインドが静かになったときの理解である。ジュワル・クールが「新時代の教育」の焦点をアンターカラナに当てたのは、マインドを含めた条件づける人間の三重の諸体の質料を征服しうる力を流し込ませるためである。本物由来の、より純粋なエネルギーが我々が本物だと思っていたものをすべて破壊してくれる。この力こそが真の意志に準ずるものであり、人間の自由意志が啓明されることで平伏したいと思うようになる新しい意志である。無能にして無力な人間が、知恵と力の媒体となり、伝導体となり、真の王つまり神という征服者の偉大さ、正しさ、美しさを驚きの喜びの中で味わうことになるだろう。これが天与の才能であり、今はまだ人類のほとんどには無効化され知られてもいない内なる真我である。なんと言葉にすると幼稚になるものかと、書かれた文章に呆れるが、他に言いようがない。
昨日、昔の友人が、いま癌で入院していると連絡してきた。この者のカルマを知るがゆえ、助けたくても、助けることが助けにならないことを、この者に伝えることは困難である。せいぜい、肉体的な痛みを緩和したり、精神的な苦悩を和らげたり、外的な宿命が全うされること、癌に侵され死ぬことを手伝うことができるだけである。そして、肉体から意識が自由になったとき、また道を外れないように助力し、自分が何者であったかを思い出す地点にまで誘導しようとすることができるだけである。そのとき、死という解放の素晴らしさ、生きているときには決して味わえなかった生命に帰ることが可能になるであろう。この者は早死で可哀想な一生だったと周囲に見られるだろうが、肉意識から解放されることが非常に喜ばしいことであることを、やがて人類は理解する必要がある。葬式で利己的な涙をこぼし、悲しみという自己劇化に酔い痴れる時代は早く乗り越えてほしい。
しかしながら、進歩していない意識である場合、再び錯覚を利用して神つまり真の自己の目的に仕えるために輪廻転生という錯覚的な経験を繰り返すことになる。真の目的が果たされぬかぎり、定期的に死という慈悲の法則によって解放されても、また束縛されねばならない。とはいえ、この繰り返しで意識は進歩的になり、経験豊かな魂となり、この世に戻されても、生の目的が個人の目的ではないことを即座に思い出せるような諸体で生まれるようになり、肉体やアストラル体やメンタル体に仕える人生ではなく、それ以上の力に仕えることを意識したまま生きれる神生になり、諸体の質料を知的かつ意識的に贖うようになるだろう。我々は、今はこのような質料の力つまりフォースに屈服し、条件づけられているだけであるが、同一化の対象が肉の質料の力ではなく、霊の力になり、概念で言えば霊と物質の対立という、惑星的なカルマの問題に仕えることが可能になるだろう。今はまだ、人類は個人の問題が問題だと錯覚しているが、根を辿るならば、それは人類の問題をこえて、本質的には惑星的な問題であることを深く理解するようになり、神の計画とか、神の目的とか、善とか、意志とか、奉仕といったものの本質と一体化しゆくだろう。
今は高次と見なされている意識が達成されるためには、肉体を持った状態のときでなければならない。三重の諸体をすべて備えた状態の意識、つまりこの世の意識で達成されねばならず、だから生きている間に乗り越えられ打ち破られねばならない殻と面しているのだという理解が最初に必要になるだろう。この殻は溶かすことができる。これに関しては、常々言うように、北風と太陽という霊的寓話が扱っている。殻を壊すための北風的な努力は人間は得意である。それは決して成功しない。この負け戦の理屈に通じ、諦めて、個人的な意志を放棄して、人々が、すべては神の御心のままに、という言葉が意味するものを理解したとき、内なる暗黒に太陽が昇り、その至福なる熱が、柔らかく、また自発的に、殻の融解を促すようになるだろう。自我は進んで真我に従い、諸体を生きながらにして脱ぐようになるだろう。これが達成されたとき、純粋な意識だけが残る。その意識が啓示するものが真理であり、真我であり、このようなことが人生の主目的であることを人類は理解しなければならない。この世は問題ではない。この世で生きたり死んだりすることも問題ではない。よくよく目を瞑り、つまり想念から自由になり、本物だけに専念しなければならない。これが最高至福であり、瞑想ではないのか。
