生の喜びは今

朝起きる。夢のない魂の界層(メンタル界の高位亜界)から、夢を見るアストラル界を経て、やがて物質界での目覚めが生じ、我々の世界、特定の自分という物語が記憶を通して再開される。このとき、起きたそばから喜びに満ちる者は稀である。今日は楽しいことがあるから嬉しいと言うならば、それはアストラル的な反応であって、魂の喜びではない。もう六時か。職場へ行く準備をしないといけない。子供の弁当をつくらないといけない。起きるやいなや、朝日の美しさも目にとまらず、現実的な話が重くのしかかってきて、朝と目覚めは苦しみを伴わせる。本当はもっと寝ていたい。睡眠の方が目覚めよりずっといいとさえ感じる。起きたあとの世界は苦痛である。

この症状を治療したい。生が喜びでない意識を治療したい。世界と真我が関係ないこと、よい日、悪い日、このような情緒的思考に影響されず、魂の喜びを我々は維持できることに、みなが目覚めてもらいたい。クリシュナムルティのように、融合した者が夢を見ない場合があるのは、目覚めと眠りにおいて、意識と気づきに連続性があり、いずれの界層にあってもメンタルないしアストラルのエレメンタルが統御されているためである。我々が瞑想で想念の統御に習熟するにつれ、しばしば夢が苦痛になるのは、マインドが統御されておらず、魂の治安がかき乱されるためである。

人々がノンレム睡眠と呼ぶ、基本的に夢のない無意識とみなされている睡眠、眼球運動のない深い睡眠状態において、我々は魂と融合しているが、その意識や記憶を持ち帰ることはできない。レム睡眠時の夢ですら、すぐに忘れ去られてしまう。結果、我々において連続性が維持されているのは、脳が健康であるかぎり物質界の記憶だけである。したがって人生は記憶であり、私は常に記憶である。だから生は嬉しくない。嬉しさを左右しているいるのは生じたいではなく出来事である。現在を知らずに生きることは、過去と未来に生きることであり、それは必然的に、我々が不完全から完全へ、現在の自身から別の自身へと移行しなければならないという、人生の課題と重荷を負わせていることを示唆している。それは他人もしくは自分が押しつけた生であって、生そのものではない。

この錯覚にくさびを打ち込むことができる。時間の感覚を打破することが鍵である。これは可能な話であり、しかも今すぐ、もしくは今でしか可能ではない話であり、「今の私にはどうやら不可能だ」と認識されてはならない話である。この錯覚を表すたとえに、灯台下暗しというものがある。そのような類いの話、視点やものの見方の話である。サマーディーやニルヴァーナ意識に入る者だけが喜びを知るのではなく、誰の生も喜びであるよう、我々の神は設計済みである。どの程度入れるか、いわばその深さ大きさといったものはあるかもしれないが、進化段階に関係なく、我々は現在という輝ける認識の橋を介して、錯覚に邪魔されることのない、いついかなる時も開いている今という天門から、生の喜びを見出すことができる。

灯台下の暗部に光を投げかけるために、ここでは文章を用いることしかできない。まず、最初の大きな錯覚は、今の意識と目指す意識が異なるというものである。もしそれが違うものならば、到達していない者が存在することになる。こういう不平等は内なる真理に存在しない。意識の変容と人は言うが、実際は、変容前の意識と変容後の意識は同じものである。探しものがないと思っている意識と、目の前にあったことを知った後の意識は、同じものである。無知や錯覚に足踏みしていただけである。この足踏みを解除するために、我々は学んだり瞑想したりしているが、その弊害として、達成が現在ではなく未来にあるという想念に騙されている。するとどうなるか。多くの者が道半ばで諦める。目の前であったことを知る前に、未来という存在しもしない話に疲れ果ててしまう。事実は、今、足踏みを解除できるということである。

現在を見る勇気が必要である。というのも、現在を見えなくさせている原因の第一位を集計するならば、それは恐怖心だからである。教師方は、準備ができているかいないかの問題だと言うが、それはこのためである。今の自分は安心、知らない自分は不安、これがマインドの反応である。怖いものを見ようとしないこと、それに恐怖心を抱いていることにすら気づかないこと、これらの無知はマインドにおいて意図的であり、自分に隠れて自分に嘘をつく類いの自己弁護であり、マインドの存続のためのマインドのプロパガンダであり、大いなる自作自演であり、そして我々はこのマインドを自分と思っているマインドの信奉者である。この偽物から自身を引きずり上げねばならない。つまり、思考では到達できない。なぜなら、もう到達しているからである。灯台下の暗部とは、思考や想念やマインドという無知の束のことである。

考えず、眉間から今を見る。すると、すでに今である。当たり前だが、我々は現在である。現在に存在する者が、現在に至ることはできないが、現在であることを知ることはできる。到達状態だということを知ることが到達である。それでよいことを知ることが悟りである。あるがままを見ようとするのではなく、今がそのあるがままではないのか。意識が変容していないからといって、今の自分が間違っているのだと推測させる想念と交わらず、すでにして私は私である。これ以上でもこれ以下でもありえない。何かになろうでは今の私は見えない。自分ではないものに到達しようなら、自分は見えない。ここではないところに何かあると思うなら、永遠にないものを探し続ける。変容していない意識であれ、真にそれでよいことを知るとき、我々は自身が変容したことを理解するのである。

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