前の記事が書かれた数時間後に肉体に起きた話のせいで、肉体は悪い状態にあり、肉体に焦点化したときはその悲鳴と苦痛を感じることになるが、そのような容態のときでさえ、書いたり話したりできるどころか至福そのものでありうるのは、真我が、書いている肉体人間とは無関係だからである。もし、私が己を肉体人間と思うならば、こうして書くことも含め、あらゆる行為を自分がしているという感覚を持つがゆえ、かなりの精神力や根性といったものが必要とされるだろう。しかし、ラマナ・マハルシの比喩で言えば、目的地に着くため電車を利用した者を運んでいるのは電車である。その者は自分で向かっていると思っているが、実際に運んでいるのは電車である。私はその電車つまり電気的な霊的実在が我であることを学んだゆえ、ほんのわずかであれ精神力や根性といったものとは無縁のまま、行為の難しい肉体条件であっても、ずっと安らいだままである。偽物ではなく本物さえ知れば全てが楽になることを伝えたい。また、このような意識が万人のものになることをひたすらに願っている。
この肉体人間に起きたことの原因を私は観察した。それは、専門的に言えば、まだ征服されていない質料が存在しているからである。もし原子亜界まですべての質料を征服しているならば、私は第五段階のイニシエートということになる。しかしそうではないゆえ、まだ征服されていない質料、まだ霊の域まで引き上げられていない質料について学ぶものがある。この教訓を理解させるためのカルマ的事象であるにせよ、私はカルマから自由な領域に生きているため、通常であれば肉体や精神に被害を受けながら、辛い状況という感覚を体験しながら学ぶことも、それなしに純粋に至福のまま学ぶことができる。つまり、肉体人間に起きる辛く苦しいことは避けられなくても、学びにおいて、辛さや苦しさを必ずしも感じる必要はないということである。それはひとえに、人々が真我と呼ぶ本物の自己に生きているという、ただそれだけの話なのである。したがって、意識は肉体の辛さや苦しさからは切り離され、変わることなく至福でいられるという、誰にとっても良いであろう情報つまり秘教的な実態を私はレポートしているのである。それはもっと関心を持ってもらいたいからである。
肉体に意識を合わせれば地獄、しかし意識が天国でありうるのは、前の記事の比喩でいえば、支流という錯覚が一なる大海に溶け去っているからに他ならない。大げさに言えば個人が超越され、自我が真我で死を迎えたからである。これが復活である。全支流が真我なる大海へと溶け去り自由になることが復活である。だから極端な例をいえば、ついこの前、中学のときに同級生であった者とたまたま遭遇したとき、その者の当時の印象でいえば、絵が好きなエロい男、というものであった。いま何をしているのかと聞いたら、エロ漫画家だと言っていた。すると、中学生以降、進歩しなかったのである。ずっとエロい事ばかり考えているがゆえ、そのままエロ漫画家である。何に生きるかで、どのような表現体になるかがそのまま決定されている。一体全体、性欲とは何なのか。その種の、専門的には仙骨センター由来の条件づけるフォースは、太陽叢のセンターを介して、喉センターにまで引き上げられていなければならないものである。横隔膜より下のセンターのフォースに、ほとんどの人間が条件づけられており、神性を認識できないでいる。ハート、喉、ヘッドの上位のセンターのフォースに生きれるようになったとき、神性の媒体になりゆくだろう。そのとき、そのような媒体が表現するのは当然ながら神性のみである。
ゆえに、日頃から何に生きるかの、なんと重要なことか。それは嘘をつけない。それは隠蔽できない。我々は同一化している何らかのフォースの表現体にしかならず、それは、その意識にしかなれないということである。日頃から神に生きれば神意識である。その神を自我は分からぬゆえ、瞑想という手段がある。目を瞑るだけ、外の錯覚から目を閉じるだけである。すると目は外ではなく内へ向くではないか。通常はそこで雑念に惑わされるため、その種の騒音から静かになるまで、つまり静めるお方が入ってこられるまでは、耐えるしかないだろう。しかし、後に分かることだが、耐えるとは、抗っているという意味である。我々が学ばねばならないことは、すべてを一つのエネルギー、一つの生命として見ることであるが、見るとは、それで在るという意味である。分離意識から述べる相対用語で言えば、一体意識で在るということである。先程の例で言えば、耐える人と耐えられるべきものという区分けはマインドの想像である。だから、実際は耐えることは逆らうことであり、一方で耐えることの対義語が明け渡しである。その体験者・経験者の放棄である。そのためには、本流が頭部から押し寄せてきている必要がある。だから、私は魂のエネルギーの認識を最初は重視すべきだと言うのである。その流れが本物へ導くのであり、その流れに身を委ねること、もっと専門的に分かりやすく表現するならば、諸体のフォースを魂のエネルギーに服従させるという基本の習得だけが求められている。融合による変容のイニシエーションである第三イニシエーションまでにすべきことはこれだけである。この達成に近づくほど、我々は常に即時に一体意識、普遍意識に守られ救われるようになるだろう。真我が自我から守ってくれるようになるであろう。これが四六時中の至福の由縁である。
私が「普遍」とか「偏在」とか述べたとき、次のように問うた者がいた。「じゃあ、いまアメリカのオレゴンにいる私の友達の誰それが何をしているか分かりますか」と。知らないし、分からない。言い換えると無関係である。この者は普遍の意味を、この世的に考えたのである。場所や形態、あるいは時空間といった概念で考えてはならない。それらは真我の後の勝手な話であり、その個々の部分について必ずしも源が全部常に知っておく必要はない。言い換えると、真理が幻想について精通している必要は全くない。「一体」と述べたときも似たような問いがあった。それもまた、形態を実在と思っているがゆえ、すべての形態と一体という考え方によるものであった。私はその背後の実在について言っている。その最初の源において一つだと言っている。一つと言うより、私である。これを知ることでのみ、自我や個人やマインドの世界から、あるいは感覚知覚の世界から自由になるであろう。
いつだったか、最近のあの総裁選の前に、誰がなっても一緒であり、批判されて終わることの繰り返しであると書いた時、多少のバッシングを受けた。その後も、支持率や人気の高さなどを根拠に、今度ばかりは違うと思いたがる人たちが、あなたの政治的見解は劣ったものであると言ったが、もう最近では、メッキが剥がれてきたなどと言い、舌の根が乾かぬうちにやはり批判し、許しがたいまでに憤慨しているのである。信じたのに裏切られたということである。まず、日本がどのような力に支配されているのかまだ分からぬのか。そして、今度は新保守的な新しい政党に期待し始めているようだが、本来であれば、新党を立ち上げるのではなく、最大の優先事項だけをまずは一致させ、他の意見の食い違いは一旦無視して、大同団結しなければ、数で勝ち負けを決する領域ではどうにもならないのだが、そうはせず、そうする力もなく、新しい党であれ古くからの党であれ、その政党同士で常に批判し合い、絶えず離合集散を繰り返している。あそこはこうだから組むことはできないとか、あの人は許せないから一緒に働けないとか、上に立ちたがっている者がそもそも一体を知らぬゆえ、政党政治という分離政治で永遠に戯れ何の期待にも応えられないのである。
なぜ我々は他の誰かに期待するのだろうか。怠惰だからだろうか。無能無力だからであろうか。あなたが死の病に侵されたとき、自分を肉体と思っているならば、誰も助けてくれないことを理解し、他人に頼った自分の愚かさを死に際に悟り、孤独感の中で死ぬであろう。問題の根源は己であって、その己とは錯覚した個人という分離意識である。だから、ジュワル・クールは分離こそが最大の異端であると言ったのである。しかし我々はいま、異端の信者である。
分離ではなく一体というものを知らぬかぎり、また自分という分離を乗り越えぬかぎり、人類の大同団結による善のための強固な協力体制というものは見られないだろう。自我の拡大版が組織や団体である。それが大きなものであれ小さなものであれ、構成している意識単位たちが一体からのものでなければ、それは分離を促進する異端のままであり、絶対に平和はありえない。絶対という言葉を簡単に使うことはできないが、それでも今私は使うことを選択した。絶対に分離意識で平和は不可能である。全体の真の福利は不可能である。分かち合いも、共生も、共存も、何もかも善きアイディアは実現不可能である。逆に、一人でも一体意識に覚醒めるならば、相当な平和の貢献に繋がるだろう。なぜなら、その者は分離ではなく一体に仕え生きるゆえ、愛の化身であり、愛以外に衝き動かされることはなくなるからである。愛だけが癒やす。すべての癒やしの原理は愛である。しかし愛は、個人が瞑想を通し、魂を通し、一体に至るまでは分からないものである。だから、魂と融合する前に愛を語る者には注意が必要である。その者の愛はおそらく概念もしくは理想である。愛そのものにはまだなっていない。愛の主である魂にはなっていない。魂を受け入れ、一体を受け入れ、自分ではなく全体を受け入れたとき、異端の信者ではなくなるだろう。その者は強烈に美しくなり、一体ゆえに根源の至福を知り、この世の事象の背後の、目に見えず働き、目に見える形態を通して働く「悪」と呼ばれるフォースに愛の癒やしを与えるようになるであろう。このとき、我々よりも先を歩んだ愛の一団の方々が、このような世界では入りたての者を保護し、支え、常に助けてくれるがゆえに、たとえ肉体の危険を覚悟しなければならないときですら、恐れることなく、愛を貫き生きれるようになるだろう。また、今は概念でしかない愛や光ですら、使用可能なフォースであるという認識と、その使用の許可が下りるようになるであろう。恐怖というイリュージョンを、我々は追い払える力で満たされるようになるであろう。このとき、我々は弱者卒業である。無能と無力の卒業である。つまり愛の入学である。この愛の道の学びは無限であり、最高の学問である。
したがって、授業料の必要なこの世の学校も時にはいいだろうが、本当の学校、本当に学べる意識がいま必要とされている。そこでは、真の美術、芸術、歴史、道徳、法律、物理、数学、体育、医学、語学といったあらゆるものを一体の至福意識で学ぶであろう。ゆえに、算数でも、1+1=2ならそこでは落第することを知るだろう。答えは1である。この学校でしか異端を追い払うことはできぬことを瞑想で知るだろう。この学校は、旧約聖書ではソロモン神殿として知られるものが象徴するものであり、「わたしの名をそこに住まわせる」領域であり、徹底して真我と、非真我なるものの違いを学ぶ。それはイリュージョンの矯正施設であり、民が契約を破れば、あるいは不正が続けば神は寺院を見捨てるとあるように、錯覚に生きるならば一時的に出入り禁止になる、独学のようでいて独学ではない秘められた学校である。子供も大人も、この愛と智慧の学校にだけは通ってもらいたい。分離ではなく一体性が支配する領域で、愛を学べることの、なんと素晴らしきことか。もし、私が高校生の時に、後の己がこのような文章を書いたことを知らされたならば、ショックを受けたに違いない。何らかの事件で頭が狂うことになったと思い、未来を恐れさえしただろう。それぐらいこの世や分離意識からすれば非常識な話であろうが、本当なのだから書かざるをえない。たとえ馬鹿扱いされようが、数人に伝われば私は嬉しい。そろそろ時間のようであるから終わる。
