※この記事は医療従事者を批判する意図はなく、また病院へ行くべきではないという趣旨でもない。
病気は気の病と書き、気はエネルギーであるが、気やエネルギーが病になることはない。瞑想で、我々は正しい気の流れを知る。同時にそれが法則であり、高位の律法ないしは掟であり、神意識を可能にさせる自然と調和であることを悟る。正しい気の流れを阻害するとき、掟に背く活動が行われた箇所、法則がないがしろにされたエーテル的な部位の現れとして、その周辺の肉体に何らかの病的形態が確立される。西洋医学はこの形態を病気と思っている。しかし、物質や形態は結果であり、結果は問題点ではない。その凝結を可能にしたもの、可能にさせようと働いた活動の力、つまり自然な気の流れに逆らい続けてきた気の流れが、この場合は問題であり原因だと見なされねばならない。したがって治療とは、病気の結果である物質や形態を除去することではなく、それらの原因である誤った気の流れを整えることである。再発や転移を防止し、出来てしまった病気を破壊する鍵は、正しい気の流れと間違った気の流れを識別し、調和させることにある。正しい流れがエネルギーであり、間違った流れがフォースである。誤用されたフォースがある箇所へ集中され、固定され、法則に反するその気の流れが習慣つまり最も抵抗の少ない気流になったとき、病気は生じ、また病気は悪化し、存続させられることになる。
固定されたフォースは、遍満する自由なエネルギーより強力な効力を持つ。悪習や依存症なども、固定されたフォースの引力が強すぎるため、個人的な意志で頑張っても打ち勝つことは困難である。方法はあるのだろうか。治療家を見つけることが方法なのだろうか。本人が正しい気の流れを知ることだけが方法でありその者の課題である。そうでなければ、治療家が治療しても再発する。ならば、どうやって正しい気の流れを知るのか。瞑想が最も簡単な方法だろう。なぜなら、瞑想とは気の流れを整えるものだからである。瞑想で徐々に高位の意識に入ることで、マインドは、正邪の気が正しく融合したことを知る。
冒頭の文章に戻る。気やエネルギーが病になることはない。気の誤用が存在するだけである。本来は神性な目的に仕えるはずのエネルギーが、個人によって誤用されたとき、それはその者由来のフォースになる。つまり気が乱れる。乱れた気ゆえに人は苦しみ、苦しむことで神の掟を学ぶ。病気とは、苦痛を通して、乱れた気を元の調和へ引き戻すことを個人に教えるための、神が用いる手段である。病気から人は学べる。苦しみから人は学べる。病気すなわち気の病や乱れを治すのは、瞑想という手段を通して流入する正しい気の流れである。これを高位のエネルギーとか様々な表現で呼んだり、神秘家は明け渡しの概念を自らに導入しようとしているが、我々の課題とは、物質に由来する気の流れを、霊に由来する気の流れに変性させることにある。病気を本当に治すのは己しかいない。病気という結果を作った原因を突き止め、癌や腫瘍などの形態ではなく、それを可能ならしめている(相対的に)邪悪な気の流れを正すことが、本質的に求められている学習と治療である。
悪い習慣は正しい習慣で置き換えるものである。悪い気の流れは正しい気の流れで調和させるものである。個人は、瞑想を通し、正しい気を頭部のチャクラつまりフォース・センターから流入させる魂に気づくようにならねばならない。キリストは教師であり、内なるキリストは魂である。魂が神つまり父である霊のエネルギー的な掟を教えてくれる。その神聖な流れに、意識に入るよう導いてくれる。そして人間意識は、魂意識と合流するのである。これを瞑想者はサマーディーと呼んでいるが、サマーディーとは本来の気の流れにすべての迷った自身の気の流れが調和したときに知られる意識状態でしかない。これを知らないとき、気を整えるためではなく、サマーディーや純粋意識や真我実現やチャクラを開くことを求めて瞑想するという病的な傾向が個人に生じる。欲望自体が気の乱れなのである。動機が乱れた気にある場合、どうして真理の気と合致しうるだろうか。瞑想する者のほとんどが誤った動機、つまり乱れた気に”由来されて”いる。瞑想は行いではなく無為である。乱れた気の活用ではなく、そのような気を静かにさせることである。自身という乱れた気を全て正すこと、つまり諸体のフォースを全て魂に支配させることが基本である。したがって、瞑想が教えるのは在り方である。しかし正しい在り方とは、存在つまり真我自体の在り方のことであり、その在り方はすでに達成されている。あとは個人の無知が、その限界を打ち破り、高位我つまり魂を通して正しい在り方を知り、純粋な意識を通して霊すなわち生命を知ることである。
気の流れを整える方法を瞑想で知ったならば、その結果としての意識状態にこだわるのではなく、気の流れを終始コントロールすることを日常の課題にすべきである。このような生き方、在り方であるとき、病気は形態を纏う前に、未病として、兆候として発見されるようになるだろう。また病気になっても、初期段階であればあるほど、おのれで治療できるだろう。つまり、まだ元の気の流れに戻すことができ、正しい気の流れを、結実した病気という一つのフォース形態に照射し、破壊することが可能になるだろう。それはすべて、病気のフォースの強さに打ち勝つほどのエネルギーが自身に伝導されていることが前提である。病気が末期的になるにしたがい、エネルギーは入ってこなくなる。いわば悪が勝ち、善が締め出される。だから自分では治療できなくなる。この場合、物質界では死の法則が慈悲として適用され、個人の意識は使用不能になった肉的形態から解放されるが、我々はこうした愚かな死を繰り返すために生きているのではなく、形態の中にいるときから、つまりは存命中から法則を学ぶべきなのである。こういうことが知恵であり、真面目さであり、礼儀であり、つまりは正しい気の流れが要求していることだと知り、この瞬間からみだりに気を緩めず、悪習慣に飲まれることを拒絶し、気分に振り回される弱さから脱却し、神聖このうえない気の流れに、自身という乱れを瞑想で整えていきたいと思うものである。