病気の治療と医学の復権

病気は、望まれるように、つまり計画通りに機能していないエネルギーであると言うならば、あなたは誤解するであろうか。流入するエネルギーがフォースと関係づけられることで、健康、強い適切な形態、活発な活動を生み出す。しかし、流入する同じエネルギーが同じフォースと関係づけられることで、摩擦点が生まれ、病んだ部分、苦痛、苦悩を生じさせ、ときには死を引き起こすことさえある。エネルギーとフォースが本質的に聖なる性質であることは同じであるが、確立される関係が問題を生じさせるのである。この文章を研究することで、このような定義があらゆる形の困難に応用でき、そして(善か悪かの)状況を究極的に作り出すのが関係のあり方であることが分かるであろう。

アリス・ベイリー「秘教治療 下」 p.246

私は、宗教的ないし神秘的な動機からではなく、知覚される激しい苦痛から瞑想するようになった者である。静かにしているとき、その苦痛が和らぐものだから、目をつむり静かに座っていることが習慣になった。そこで行われていることが瞑想と呼ばれるものであったにせよ、呼称はどうでもよく、それが苦痛を含めて「あらゆる形の困難に応用できる」ことを発見してきたことは事実である。病気はその一つでしかない。

どのような不快感も同様に消滅させることが可能である。私が苦痛を瞑想で調べたとき、それが「摩擦」に起因することに気がついた。何と何の摩擦であろうか。高位我のエネルギーと低位我のフォースである。それは共にエネルギーだが、純粋な高位我のエネルギーが、低位我のそのときの焦点となっている体の不適切なあり方と関係づけられたとき、そこに齟齬が生じ、摩擦が生まれ、その習慣が「計画通りに機能できないエネルギー」として固定され、病気と呼ばれるものを作り出す。

誰にも病気を作り出してほしくないから書いている。また、苦痛が調べられず、我慢で対処を続けられたり、薬などで知覚を麻痺させることで放置的な対処が取られているとき、「計画通りに機能できない」誤ったフォースが何かしらの病いを築いているか、悪化させていることに気づいてもらいたくて書いている。なぜなら、ここが理解できればその逆も理解でき、常に調和した意識に入ることができるからである。したがって、読んで自身に応用できなければ、これらの文章は意味をなさない。

肉体は、エーテル体をそのとき支配しているエネルギーが何であるかに応じて行動を起こす自動装置である。ここを理解しないとき、人は自分が行動していると安易に錯覚する。肉体を動かしているのは、エーテル体を支配しているエネルギーである。そのエネルギーは、我々が低位我のどの体に焦点化し、また偏極しているかによって変わる。通常の人間はアストラル偏極であるため、ほとんどがカーマであるカーマ・マナス的なエネルギーにエーテル体は支配され肉体は条件づけられ、その条件づけられた行為で低位の体を養い自我意識を存続させている。カーマでもマナスでもなく、つまりアストラル的でも低位メンタル的でもなく、それらが魂に従属し整列したとき、純粋な高位エネルギーが歪曲されたり誤用されたりすることはなくなり、ここではじめて不調和が調和になる。はじめて摩擦が取れるのである。この滞りのない状態、つまり低位我が魂に吸収されている状態を、我々は自然と呼んでいる。このとき、人間は苦痛から自由になる。高位のイニシエートのように、調和が完全でありカルマが残っていなければ完全な無病が達成される。こうして我々は、意識的かつ知的に、神の「計画通りに機能できるエネルギー」の伝導体すなわち経路になることが可能になる。

エネルギーは、それが衝撃を与える接触するフォースよりも精妙で強力である。フォースは強さにおいては劣るが、固定されている。この最後の言葉に様々なエネルギーの関係という問題を解く鍵がある。自由なエネルギーは、固定された接点という観点から見ると、すでにそこに固定されているエネルギーよりも(一つの限定された領域内においては)いくつかの点でその効力において劣る。それは本質的にはより強力であるが、効力はない。このことについて熟考しなさい。

秘教治療 下 p.241

例えば腫瘍ができる場合がある。これは、内的に固定されたフォースの外的顕現であると思われる。肉体的に言えば、治療のためには腫瘍を除去する必要があると医者は言う。にもかかわらず、再発という言葉がある。治してもまた腫瘍ができるのである。ならば治ってないのではあるまいか。癌でも痛風でも何でも構わないが、原因が変わらないかぎり、結果は再び現れるのである。このブログに医者の読者がいるだろう。上記の点に携わるのが実は医学であるかもしれないとは思わないだろうか。西洋医学の対処療法で切除したり薬で紛らしたりするのではなく、再発させる原因、病気を作り出す原因を突き止め、それを患者に理解させ、共に不調和を調和へ導くことが真の医学であると私は思う。そのためには、一人ひとりに時間と労力がかかる。よって商売としては成立できなくなる。医学とは、本来は奉仕である。金をもらうから治してやる、ではない。無料ですべき行いである。ここに医学が復権しうる鍵があるが、全体的にはまだ不可能であり、個人レベルから始めるよりほかにない。それは「医師」の免許を持つ者に限らず、神の「意志」である調和を目指すあらゆる弟子の目標である。

「生活習慣病」と医学は言う。悪い習慣が病気になると言っているのである。ならば悪い習慣とは何なのか。研究や統計で病気になりやすい食品や習慣を導き出してそれで満足なのか。「善か悪かの状況を究極的に作り出すのが関係のあり方である」とイニシエートは言っている。肉体の行動と習慣は結果である。その結果の病気もまた結果である。肉体に行動を起こさせる原因は、その者のエーテル体を支配しているエネルギーである。このエネルギーつまりアストラル体やメンタル体のフォースが、魂のエネルギーとの関係において、調和を乱していることが「悪」と呼ばれるものである。治療は、エネルギーとフォースに関わるものである。これが未来の医学である。治療する力とは、魂のエネルギーであり、すべての形態に魂は宿り、すべてのエーテル体を通し正しく関係づけられることが「計画」である。このオカルト医学の分野を開拓してもらいたい。世間には認められないだろうが、そのような道を悠然と歩み、たとえ貧しくとも魂は愛と喜びに満ち溢れて、苦しむ兄弟姉妹を助けてもらいたい。

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