例えば個人の欲求について。われわれは外的なものを現実として見ている。何かが欲しいならば、そのモノの形象が想像力とさらなる欲求を掻き立て、その引力の強弱に応じて無防備になったり理性を働かせたりする。これに対し瞑想者は、欲求の感覚を明確にフォースとして捉える。目に見えるものではなく、その背後の目に見えないものを扱う。欲望が見せる想像力や引力に抗うのではなく、欲求として認識される形態をのフォースを見て捕まえ、高位のエネルギーでその低位のリズムを置き換える。
苦痛の例
これらのフォースは人間の知覚領域にないため(それは本人の騒がしさのためである)、われわれは言語や概念を使用することで生活している。例えば苦痛があるとする。するとわれわれは「苦しい」と言い、その苦痛を取り除いてくれそうな何かを求めることになる。こうして、苦痛そのものが見られることはない。なぜなら、われわれは苦痛というアストラル・フォースを扱う離れた立場になく、その苦痛と自らを同一化しているからである。われわれは苦痛をどうにかしようとするが、われわれが苦痛そのものなのである。これが見えないため、単にフォースの犠牲者となる。このようにして、人類は無意識に低位我のフォースの侵入を許し、その時々の気分や環境、出来事などに応じて苦痛と満足を交互に繰り返し、それに賛成か反対かによってふたたび情緒的な行為の連鎖を生み出しつづけている。
瞑想を機能させるために
瞑想はこの無意識や個人の騒音を静かにさせるだろう。そのためには、欲望瞑想から自由でなくてはならない。通常、われわれは欲望か恐怖に反応して生の計画を立てる。「世俗」に答えがないと思うとき、次に「霊的」なものを欲望し始めるのである。そして、書物を読み、(ときには大金を払って)教えてくれる師を探し、自らの欲望と恐怖を満足させてくれる何かに向かって逃避しつづける。このような利己的瞑想から自由でなくては何も見えない。なぜなら、われわれは欲望そのものだからである。われわれは恐怖そのものだからである。瞑想は、自身を見るものである。自らの状態をただ見て理解することである。
静かなとき、はじめてフォースに支配された状態から離脱できるだろう。離れて見ることができるのである。言語で言えば、無執着な状態である。苦痛であろうが、欲望が生じようが、背後のフォースを見て終わりである。瞬時に全ては変性される。これが理解されるならば、瞑想者はフォースとエネルギーを識別できるようになるだろう。目に見えるものより、背後の原因を扱い始めるだろう。もう誰かや何かに騙されることも、頼る必要もないのである。
全ての弟子たちは、生来備わっている所有権により自分のものであるフォースとエネルギーを活用することを学ばなければならない。これらエネルギーとフォースを、平均的な人々が理解した上で活用することはない。彼らは通常、これらのパワーの犠牲者であって使用者ではない。自分が随意に引き寄せることのできるエネルギーがどれだけ途方もないものであるかを認識している人はほとんどいない。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道3」 p.61