目に関する対話

長らくあなたの記事を読んできましたが、大きな懸念があると言わざるをえません。前回の対話のなかで、「自我は疑い深い目には耐えられない」というフレーズに私は着目しました。そして自身を見ました。私というものを見ようと、まさに疑い深く見つづけました。しばらくすると私は疲れてしまい、私の目は実りをもたらさず、どうせ私は自我なのだから無理に決まっている、といういつもの落胆に襲われました。私の懸念点とは、この目についてです。気づくこと、見ること、これは私の目つまり心の目ではなく、私の知らない目ではないのか、そして私はあなたが伝えようとする目ではないので、全て私にとっては無意味な話ではないだろうか、というものです。

重要な点を述べる。あなたは効果を求めている。違いますか。ゆえに脳に負担をかけるだけの危険な瞑想をしている。効果を求めるとき、見ることは効果を得るための手段へと堕し、あなたの心の目は自身の夢想に溺れてしまう。このことを理解しますか。

はい、私は瞑想に効果を求める気持ちを持っています。そのことを私は恥じていますが、私という自我が瞑想をするかぎり、効果を求める気持ちはどうしてもついてきます。心は汚いままです。

効果を諦められるだろうか。あなたが得るものは決してない。何をしても無駄だから、自分のことはもう諦めようと思えるだろうか。それともまだ効果のため、自分のために努力をしてみるだろうか。汚い心という気持ちがあろうと、それすらも認め、受け入れ、諦めて、自分には一生効果はいらないことを言明できるだろうか。

それは自我にはできないことのように思えます。必ず個人的な動機があります。

それも含めて、心で生きる以上、自分には不可能だということを認めきれるだろうか。

少なくとも私には不可能だと思いますが、求める気持ちは残ります。そしてまだ希望はあると強く信じています。

その場合、もっと求めるべきである。信じられる書物や聖者の言う通りに真面目に励み、必死で求め、鉄の意志で努力することができる。その結果、無理だったらまたこの話に戻ればいい。どの方法も試してみたが、やはり無理だった、それは私の能力の問題ではなく、私として求めるがゆえに無理なのだ、ということに気づくとき、あなたは効果を諦める。そんなことのために瞑想したいとは思わなくなる。このようにして汚い心は去る。そう思わせる正しさの源が真我である。

あなたは諦めたのでしょうか。

私は効果のために瞑想しなかった。自分のことはすべて諦めていた。どれだけ不幸な人生でも構わないと考え、正しいと思うことだけを、それが正しいことだから、という動機で行った。だから、どんな方法も、やったのは最初だけで、その後はやっていない。この態度が結果的に波動を高めたのである。

自己実現を諦めるという話は恐ろしく思われます。それは死より恐ろしい考えです。私はおそらく、まだ諦めず、やり抜きたいという気持ちがあります。

その気持ちは知っている。多くの教師が各々の方法を教えている。自分に合うものをあなたはやり続けるだろう。それが結局はあなたの近道になるだろう。

……話を戻したいのですが、あなたが前回の記事で書いた「疑う目」は、心の目や考える私の普通の目・意識ではないということでよろしいでしょうか。

あなたの目は単に思考である。そして、あらゆる思考の集合体が心である。あなた、つまり思考する者もまた、思考である。このことに気づいてほしい。これを理解しても認めない人が多いという不思議な現象について考えてみてほしい。心の深いところで、あなたは事実を知っているが、それに気づきたくない。というのも、あなたは、あなたとして人生を生き、あなたとして霊的に達成し、あなたとして自己実現したいと考えている。これは悪いことではないが、やがてあなたは静かになるだろう。あなた、心、思考、これらは去るだろう。

あなたが記事で述べられた目は、第三の目のことでしょうか。

そのような概念や観念と関係してないとき、ただ物事を純粋に見る目がある。

つまり……思考が抑制されたときに初めて知覚される目という意味でしょうか。

思考があってもなくても関係なく存在する目である。人々は思考を統御して初めて何かが起こると期待している。そのような期待と関係なく目は存在する。気づかないだけである。思考が少ない場合、気づきやすいだけである。事実は、常に目は存在する。

では、あなたはどのような経緯でその目を発見されたのですか。思考の制御でしょうか。

そういう話を一度忘れて、自由になるべきである。何かを達成することで何かが得られるという話は、私の瞑想によると嘘である。そういった噂話とは関係なしに存在している力や生命があり、それが正しさで、それ以外はすべて正しさを知らない状態に陥った力や生命である。私は、私よりもこの力や生命を信じ、愛するがゆえ、私から外れているのである。思考を統御しようとか集中しようとか、一切しなかった。個人の努力とは関わらなかった。

あなたは自我の時期を過ごしたと書いています。それがどういうきっかけでそうなるのでしょうか。

瞑想の積み重ねである。ただ静かにしていた。個人的な事はすでに諦められており、またどうでもよく、どんなものよりも偉大なものを我が内に愛しただけである。

愛するためにはそれを知らないといけません。どのようにして自我が、その力や生命を認識するようになったのですか。

前の質問と同じ答えになるが、あなたの瞑想と私のしていた瞑想に違いがあるなら、それは先程述べたように、効果や達成のための瞑想ではなく、瞑想そのものを愛した点にある。なぜなら、この世の何よりも瞑想が上回っていることを、瞑想するほど理解したからである。

その違い……私の瞑想は効果を求め、あなたは求めなかった。それはアストラル体がコントロールされていたからでしょうか。

コントロールされていない状態で瞑想を始めたが、瞑想がアストラル体をコントロールしたのである。考えてもみてほしい。瞑想前、瞑想中の最高点、瞑想後、日中、これらに意識の違いが見られるはずである。意識を変化させたのはあなたではなく瞑想である。その変化させる力を私は受け入れ、自分よりもその力が正しいことを認めたのである。これが錯覚を解く秘訣である。だから、私という中継体を通して書かれる文章は、エネルギーとフォースの観点から書かれるのである。

分かりました。考えるべきことができたようです。何か掴めそうな気がします。

要点は、瞑想の効果か、瞑想そのものか、である。

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