幸福という無知
人間が自己と非自己を識別できないとき、目標は個人的な幸福と解釈され、それが単にアストラル的なものであり、低位性質に屈しているだけだということを理解することは、普通の人には難しい。しかし、瞑想者に難しいものであってはならない。
幸福は情緒に起因するものであり、パーソナリティーの反応である。……それは何らかの低位性質を満足させる状態にパーソナリティーがあるときに起こるものである。肉体が快適であり、環境や周囲の人々に満足し、もしくはメンタル的な機会と接触が満足できると感じるとき、幸福に感じる。幸福とは分離した自我の目標である。しかし、私たちが魂として生きようとするとき、低位人間の満足は無視される。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック下 」p.67
我々が自我と同一化しているとき、獲得や所有によって幸福が可能になると考える。これが不幸の原因である。人間の形態内で、何を目的に我々が存在しているのかを確認できないとき、形態の諸フォースを識別することはできず、肉体は低位性質に逆に使われるだけである。このようにして、幸福を求めるという単なる欲望、アストラル・エレメンタルに貢献するという下の世話が、人の世界では正当化されている。霊的なものですら、幸福の対象、欲望の対象、アストラル体を満足させる対象となっており、その種の低位性質と同一化したまま、「私には進歩が見られない」と、自称探求者たちは嘆いている。例えば、「私は誰か」とおのれに問うより、なぜそれを問うのかとおのれに問う者は少ない。問いの背後の動機が、欲求や恐れに染まっていることを確認しようとする正直者は稀である。ただ欲望に動かされ、何も分からずサマーディーや真我実現を欲望している者のなんと多いことか。現在進行系で欲望中の者にこれらの有毒性を理解させることはほとんど不可能である。
幸福以上のものはすでに与えられている
この文言が決まり文句であってはならない。現実になる必要がある。自我と同一化するとき、我々は幸福の材料がなければ不幸である。魂と同一化しようとするとき、幸福の材料への興味は失われ、このようにして自我は餓死し、彼は環境や出来事とは関係なしに、愛と喜びに満たされる。自我は向かっている方向が逆である。従っているフォースが上昇の波動とは真逆である。その束である低位我に従っていて、どうして内在の神性を知覚しうるだろうか。こういう基本事項は、人の世においては毛嫌いされるかもしれない。自分を信じることなく、外的な教師にばかり夢中になって、騙されやすい無知な人間を演じている方が楽かもしれない。彼らは、自分が神聖であるという事実を拒んでいる。尊敬する気持ちが強すぎて、聖人や覚者だけが特別なのだと思いたがっている。自分は低い人間だと思おうと試みている。経験を積み、自我に疲れ果て、自我ならぬものに本当に従いたいという信念が深まるとき、彼は自我の幸不幸を無視しはじめ、みずからおのれを見ようと決意するだろう。なぜなら、自身を救いうるのは自身のみであるという決まり文句が事実であることをこのとき認めざるをえないからである。もう真我から逃避できないのである。
心静止
心臓の電気的な働きが失われるとき、心電図の波形は上にも下にも振れることなく水平になる。こうして人は死ぬ。自我の死に方も同じことで、日頃から低位のフォースに反応せず、統御され、何に対しても反応しない心の静止、精神の平坦、聖なる無関心が人を支配していることが大切である。そうでなければ、高位のものを知覚したり、その受け皿になることは不可能である。これは難しく感じられるかもしれないが、瞑想を通して心の静けさが徐々に達成されるにつれて、逆に反応することの方が難しくなるものである。なぜなら、騒ぎ立てる心より、静かな心の方が心地よいことが理解されるからである。この場合、幸福でも不幸でもどっちでもいいと感じられる。内なる至福は、そういうこととは関係していないからである。現象的な物事や出来事は、内在の至福に干渉できない。それらは別の意識、別の領域のものであり、もしくは片方だけ錯覚である。
違うものを人は求めている
心がなにものにも脅かされず、驚かされず、外的な個人について無関心であり、欲望のようなアストラル・フォースではなく、高位のフォースにのみ従うならば、多くのことは簡単に達成されゆくだろう。これは単純なことなのだが、最初は様々な波動を識別することが難しいため、それだけ騙されることも簡単である。何が価値あるものかを理解できないため、通常はその人の心の美しさを基盤にした知性に対し、我々は訴えかけることができるだけである。落ち着いた心が必要である。怖がっていない心、無欲な心、素直で純真な心、それでいて知的な心、つまり心と頭のバランスが取れている精神が求められている。悟りや進歩やサマーディや解放といった霊的商品の宣伝文句に反応しない精神が必要である。興味を持つためにそれらについて書いてある初歩的な本に魅力を感じる時期は必要かもしれないが、早く卒業して、個人的に心静止し、そもそも存在している内なる喜びにとどまるべきである。果たしてこれが難しいことなのだろうか。難しいのではなく、基礎知識がないだけである場合が多いように思われる。
人類に関して言えば、解放の秘訣は、様々なフォースのバランスをとり、相反する対をなすものをバランス状態にすることである。熱誠家が見つけて辿るべき道は、これら対をなすものの間の狭い線であり、その道を右に曲がることも左に曲がることもなく辿らなければならない。相反する対をなすものを見分け、自身の性質のフォースのバランスをとり、道を発見し、道になったとき、彼は世界のフォースを用いて働くことができるようになり、三界のエネルギーのバランスと調和を保ち、……協力する働き手になれるということを覚えておかねばならない。これがアストラル界という戦場の性質を理解することによってもたらされる実際的な成果になる。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック上」 p.270