質問:眉間のセンターの位置を教えて下さい
眉間に意識を置くとは、眉と眉の間の位置を指しているのでしょうか? 私の場合、眉と眉の間の一番高い(出っ張っている)骨の位置より、その骨の少し上にある一番低い(凹んでいる)位置、眉とおでこの間にある一番低い部分に意識が集中してしまいます。眉間のセンターの位置はどこにあるのでしょうか?
この質問は重要な視点を提供してくれている。つまり、質問者は「眉間のセンター」を肉体の位置で捉えようとしているが、実際はエーテル体に存在することを見逃しているという点である。言い換えると、瞑想者は、肉体ではなくエネルギー体つまりエーテル体に意識を移行させる必要がある。
エーテル体は、エネルギーのナディーで出来た網のようなものであり、それが無数に織り込まれ、このエネルギー体のいくつかの場所に様々なフォースの焦点を形成している。その中で最も重要なのが七つのセンターである。しかし、そのような焦点は、これ以外にも多く存在する。
アリス・ベイリー「ホワイトマジック下」p.283
センターつまりチャクラとは、エネルギーの「交差点」であり、物理的な身体の器官ではない。それはエーテル体内におけるエネルギーの焦点の場であり、生命力が流入し、分配される集中点である。よって、それは固定的なものではなく、ピンポイントの場所でもなく、流動的なエネルギーの広がりの場でしかなく、瞑想者が集中しようと目標にすべきものではない。
「意識を置く場」として、もし眉間の意味をアジュナ・センターと理解するならば、それ自体が自由なエネルギーの流れを阻害することになる。個人が眉間に意識を置くのではなく、魂が眉間に座しているのである。ゆえに魂と融合する場合は眉間からという意味だが、実際には「私」と「魂」は同じものである。したがって、「それはどこか?」などの質問を許してはならない。それは融合ではなく、個人の分離意識を促進させることになる。私が眉間から融合すると言うとき、仮に融合直前と融合直後という区分けをするならば、そのどちらにも思考はない。つまり分離はない。「そこ」へ運ぶのはエネルギー自体である。
ここで次のことが理解されるだろう。個人の意志で融合するのではないと。個人の意志が、魂の意志に置き換えられたとき、融合という意識に導かれるのだと。我々は覚えておかねばならない。「エネルギーが意志である」と。それだけが個人の意識を魂へと引き上げ融合させる力である。個人とは諸体のフォースの総体であり、それらはすべて、高次のエネルギーによって消し去られるのである。だから、融合においては、もはや個人の感覚は存在しないのである。この段階は、「I AM THAT」という表現で知られている。瞑想者は、自身が「THAT」であることを知っており、それと融合したことを知る。にも関わらず、まだ波動は感じられると思うのである。それは、魂が波動の一次的な出発点ではないことを意味している。よって瞑想者は知るのである――魂すら乗り越えられねばならないと。
個人は何を指標にすべきなのか
融合前は魂である。もしくは、魂のエネルギーである。多くの人が頭蓋内に感じているその圧迫してくるリズムある波動である。それをよく見てもらいたい。それ自体が動いており、ひとところに留まっておらず、何らかの働きかけを行っており、刺激を個人に与えており、仕事をしていることを理解するだろう。これが不眠不休の奉仕者の意味である。
次に重要なことは、自身の波動を魂の波動と一致させることである。ここに関する適切な用語は、「明け渡し」であり、エネルギーに対するフォースの「服従」であり、その態度は「在る」である。「THAT」として在ること、それは「I=THAT」であり、これが分かったならばそのときは融合している。この段階のジュワル・クール覚者の描写が以下である。
何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスであるエゴの中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在―時間と空間とそれに含まれる全てのものがなくなったときにでも決してなくなることのない存在―についての内的な認識に基づく至福である。低位界層のあらゆるイリュージョンを経験し、それを経験し終え、それを変性し、超越したとき、人はこの存在を知る。人が努力を行う小さな世界が消え去って、無に帰したように見えたときでも、それはなおも生き続ける。それは「私はそれである(I AM THAT)」という知識に根ざしている。
アリス・ベイリー「イニシエーション」 p.113
この描写はほとんど完璧であり、我々瞑想者が最初に入れるようになる意識を明確に表している。これに関して私は重要なことを発見してきた。普通は、このような意識は自分には無理だろうと思うものである。私に関して言えば、興味すらなかった。そういう段階ではないと考えていたからである。しかし、いつの間にか達成されていたのである。これは、個人的な特別な才能の問題ではないことを意味している。重要なのは魂の発見であり、彼を通して流れる意志との融合であり、結局のところ、それは非自己を魂に完全に明け渡すことを意味している。本物への集中だけが重要なのであり、それに付随して発達するセンターやチャクラに関しては自動的に知識が得られるようになるため、あまり注目を向けず、魂だけに焦点化し、彼の「声なき声」を抽象マインドを介して直観的に理解し、的確にエネルギー自体とフォースを識別し、頭で考えることなく、魂によって、魂として、その深みへと沈潜し融合してゆかねばならないのである。
この意識はどのような段階であるか
「時間と空間とそれに含まれる全てのものがなくなったときにでも決してなくなることのない存在」が自身であることを、このときイニシエートは知るのである。これは第三イニシエーションの前に起こるが、この意識の完全な定着を第三イニシエーションと呼んでよいだろう。結局のところ、第三イニシエーションの本質とは以下である。
第三亜界以上を征服し、魂自体の破壊が起こり、その過程に必然するトライアドやその上位のモナドとの融合に関しては、第四イニシエーションまでの目標である。私が引用で使うラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジやクリシュナムルティはこの第四的な意識を達成した媒体である。彼らはもはや魂の話をしておらず、生命自体について話しているが、彼らの「マインドの超越」という表現においては、具体マインドを指すこともあり、その文脈において識別する必要がある。
まとめ
センターを肉体的な位置で確かめる必要はない。そのような個人の試みは本来の意志の流れを妨害する。見つける必要があるのは流れ自体であり、それは魂のエネルギーに非自己というフォース体を明け渡すことで見出すことができる。そこが意識の中心点である。これは個人の努力によるものではなく、そのようなフォースが明け渡された後に理解できるエネルギー自体の意志によるものである。流れを知るならば、後はそれに身を委ねるだけである。こうして錯覚は飲み込まれ、流れは即時に意識を最初から存在した真の自己自体に引き戻すのである。
問題点は、ほとんどの瞑想者がこれを個人で解釈しているところにある。個人は全くこの話に関係がない。今は初心者だと感じる個人意識があっても、正しい道を辿るならば、このような発見は必然である。これさえ分かれば、個人の苦悩は終わる。助けられる必要はなくなり、助ける側に回ることが可能になる。人類は病んでいる。助ける媒体が不足している。全体は意志の望む方向に逆行している。この意志の修正に我々は自己の修正を通して参入し、真の生命の目的に没し去らねばならない。そのとき、もはや二度とわれわれの至福が絶たれることはなくなるのである。