瞑想は集中なのか。広く知られている集中の概念は誤った解釈であり翻訳である。集中には、集中しようとしている者か、集中している当の者が存在している。いわゆる集中は、理想の想念へと到達しようとする抵抗である。真我がすでに私であることを知らない者のみが為しうるAからBであり、それは無為にはほど遠い方向性の誤認である。真我とは私である。真我は集中によって達成されず、集中しようという錯覚した想念の背後の実在である。睡眠の安らぎは、睡眠に集中した状態でありながら、そこには集中しようとする者も、集中しようとする対象も、集中へのいかなる努力も存在していない。人々が考える集中とは関係なく私はすでに存在している。これは意識ではなく生命自体である。魂ではなく霊である。
誰しも名前があるだろう。仮にSであるとして、人々は私をSと呼び、私もまた自分をSだと思っている。それは本当の話だろうか。霊つまり生命が、自身をSと見なす態度の奥深いところに、葛藤、齟齬、摩擦、苦痛が見つかりはしないだろうか。私はSではないという絶対的な感覚の起源がマインドを超えたところに在る。私は私であるところのものである。究極のアイデンティティーがそこには在る。それ以上もそれ以下もない聖なる閃光がそこには在る。永遠でありうるもの、死してなお残るもの、永劫に不滅であるもの、マインドという錯覚の彼方におわしますもの、しかしすでに私でありうるもの、それは集中ではなく名づけようもない存在である。私は在るである。私という純粋な存在である。あらゆるものを飲み込む原因にして、そのあらゆるものと関わりのないもの、これが極楽である。これが浄土である。果たしてこの実在が、どうして集中で到達されようか。集中などのありきたりな霊的概念とは何の関係もなく私は在るということに修行者や瞑想者が気づかないのは、彼や彼女がSだからである。
現実と我々が見なし力を与えているもの。つまりは世界。これはマインドの後の話であり、作り事、影、想念である。これらの想念の背後が実在である。結果が統御されたとき、原因が知られる。顕現の原因が私である。これだけが、真にアイデンティティーと呼びうるものである。それは意識とは何の関係もない。なぜなら、意識がどのようなものであれ、それは存在するからである。意識は、存在つまり真我の道具である。それは肉体が意識の一つの道具であるのと同じ関係である。すべての顕現そして形態の背後に意識があり、その意識の背後に生命がある。とはいえ、人間に実在を明らかにするのは純粋な意識である。瞑想で我々は純粋な意識つまりマインドが統御された後の普遍意識に帰還するが、その意識が啓示するのは意識以前の当たり前であったもの、私、真我である。
真我の認識が、知識の多い者ほど起こりにくいのは、彼らの知識ゆえである。知識を手放せないゆえである。人々は師を持ち、歩みを支えるバイブルをおのがうちに固定している。他人の教えが導くのは、せいぜい瞑想までである。いったん瞑想に入るやいなや、瞑想を教える他人など存在しはしない。瞑想の師という概念は相当な勘違いである。本能的に、独学つまりおのれじしんで見出す必要性を認識しなければならない。いかなる教えも概念や観念でしかない。それらと関係のないものを、教えや画一的な体系を通してどうして理解できるだろうか。孤立した統一という状態が起こりうるのは、あらゆるものと私は関係がないという感覚によってである。教えも含めて、あらゆるものは結果や顕現の世界に属している。これらに目を瞑るのが瞑想である。だから瞑想の師を自称する者には注意してもらいたい。師とは私であり、その私が教えるのが真我である。言い換えると、魂は私であり、魂が教えるのが霊である。個人の意識が純粋な意識を知り、その純粋にして普遍的な意識が教えるのがすべてに行き渡り浸透する生命である。そして私は生命である。私は名前でも形態でもない。私は命である。