- ある人に嫌なことをされて、この数日、怒りと苦しみに苛まれています。
嫌なことをされたということは、あなたが以前に嫌なことをしたということだ。そして、あなたはまだ腹を立てている。相手を許せない精神とは、相手に仕返しをしてやりたいという精神である。そのような「嫌な部分」が自身の内部に存在しているという事実から取り組み始めるべきであろう。自分の嫌な性質は棚に上げて、他人の嫌な部分ばかりに焦点を当てるならば、霊的な道から外れており、それをこの世では外道と呼んでいる。
- 具体的にどう取り組めばよいのでしょうか。
段階による。つまり何ができる段階かによる。だからといって、この世の道徳の授業や宗教の教えのような上辺の「~してはならない」といったレベルの話をしても意味がない。
まず、自身の内部の怒りに対処するという方法がある。怒りはアストラル界のフォースでしかないため、魂のエネルギーを眉間から照射するだけで消えてなくなる。その後、あなたは怒っていたはずの対象を愛おしいとさえ思うだろう。
次に、魂と随意に整列でき、ハート・センターが開いている場合は、愛のエネルギーを使用できるため、最初から愛として愛のエネルギーを嫌いと感じる相手に向けるという方法がある。意識において距離などないゆえ、直接働きかけることができ、その愛のエネルギーと共に、相手の霊的向上のための祈りの思いを加えるならばなお良いだろう。この愛意識において、現象的には私と相手であっても、本質においては同一のものでしかないことに気づくだろう。同一かつ一体だからこそ内部から自身として扱えるのである。このとき、誰かに嫌なことをされたという精神は存在できない。
最も良い方法は、気にも留めないことである。あなたがすでに魂であるならば、気に留めるということができないだろう。「気にしない」とは、「何もないところに気を作らない」という意味である。気にしない者は、何かされてもそこにいかなる悪意の気も作らない。あなたの場合は気にしているがゆえ、邪悪な気を作っており、それが自らに返ってくる未来をあえて作っている状況である。実際は、ブーメランのように返ってくるのではなく、あなたが相手と思っているのは自分であるため、未来に起こることとは、かつて自分にしたことであり、この意味において自業自得という無知を意味している。
- 正直に言いますが、私の中にどうしても「許せない」という強い感情があります。とてもではないですが、愛したり、ましてやその人のために祈るなどのことはできません。それくらいのことをされたのです! このような自分にうんざりしていますが、ほとんど一時間置きに、その人や、その嫌な出来事が思い出されて、許せないという気持ちに圧倒されてしまうのです。
それは全くあなたの責任ではない。まだあなたという器に魂が入れるほど磨かれていないため、器に入れるのは邪悪なものが質的にも量的にも多く、器という用途はその内容物のために使われるしかないのである。あなたは、単に、あなたという器に入れたものの犠牲者でしかない。したがって、今は無理でも、自分が駄目だとか、自己憐憫に逃避したりだとか、知的でないことはやめて、自身という器をより良いものへと変容させるために、たえず神聖な書物を読んだり、神聖な思いで心を満たしたり、可能な時間に瞑想におのれを委ねたりと、自らを神に方向づけることが何よりも肝要である。
- 結局のところ、今は我慢するしかないということでしょうか。
何に我慢するのだろうか。負の情緒や感情を抱えたまま、それに耐えるという意味で言っているのだろうか。負の情緒と自身を分離させ、敵対し、対象化し、それをどうにかしようと思う気持ちは分かるが、何かを「する」のではなく、その前に、「見る」ことを試してみてはどうだろうか。もっと良いのは、負の情緒と「共に在る」ことである。敵対せずに。もしこの意味が分かるならば、あなたと、あなたの感情といった分離すらないことを知るだろう。それは同一のものである。この同一性を知るとき、対象化は消え去るのである。あらゆる二元は一という実在においてイリュージョンでしかないゆえ、消散されるのである。
この方は理解しなかったが、その原因は頭で生きているからである。起きたことに頭で反応し、許せないことだと頭で判断し、そうすることで情緒的なフォースを自作し、自作したものに憑依され、この一連の無知による自縛に苦しんでいるのである。このような無知や分離意識をかき消すためには、個人以上の何か――魂が訪れねばならないのだが、まだ器が未熟であるため、知的に、その未熟な器を磨かねばどうしようもないことを理解する必要があるだろう。
通常、自分を磨くのは自分だと考えられている。汚れた雑巾で磨けるものなどあるはずもない。いま、我々という器は汚れている。この種の物質的で粗雑な汚れを拭き取れるのは、より純粋で精妙な、より高い波動であるもの、そのような意味でより霊的な力でなければ不可能である。だからラマナでも誰でもいいが、一つひとつの汚れに対処するのではなく、汚れ自体を明け渡せと言った。汚れた者が、自身の汚れた手で自らを拭き取ることが不可能であるゆえ、その汚れが情緒つまりアストラル界のものであるならば、まずはメンタル界の力が必要である。つまり理論的な理解である。これはまだ低き波動であるゆえ、まだ無力である。理論的な理解の次には、自身のすべてを諦め、放棄するという、無力さの悟りが起こらねばならぬだろう。このとき、自分のことはもうどうでもいいと考え直し始めるだろう。自分は嫌な目に遭ってもかまわないが、もっと嫌な目に遭っている兄弟姉妹の助けのためだけに生きたいと生き方の針路を修正し始めるだろう。こうして小さな自己を忘れて無私の奉仕が必然的に行われているうちに、大きな自己が立ち現れるであろう。
自分に起きることは、他人という自分にかつて自分がしたことでしかない。他人が悪いのではなく、自分に悪い性質がまだ残っているということである。ここに気づき、誰彼を裁くという錯覚ではなく、常に悪の源をおのれの内部に見て、この世の現象はその映し鏡でしかありえぬことを見抜き、他人ではなくひたすらおのれに真摯に向き合い寄り添う生き方を徹底するならば、その者に賢さの源が訪れるだろう。魂の光がなだれ込んでくるだろう。こうして、人間を魂が助けるようになる。この存在を人間の意識と脳は完全に理解できるようになり、必然的に、この愛のお方のためにすべてを犠牲にしよう、すべてを捨て去ろう、すべてを諦めようという気持ちが強くなり、この明け渡しは長年の瞑想で徐々に進展し、やがて容易く一致して振動できるようになるであろう。このとき、分離もなければいかなる苦しみもない。裁く者は裁かれる。このような無知に翻弄されることなく、悪の根源は我が内にあり。これを理解して徹底して瞑想という内なる前進と、奉仕という外なる前進によって、自らの諸悪を一掃しゆき、我という器を神の器として、また神の用途として使える芸術の域まで完成させねばならない。
この世の器でも芸術品と勘違いされて展示されたり売られたりしている美術品があるが、そのどれも美しくないのは、作った者の波動がそのまま乗り移っているからである。それは絵画でも音楽でも何でも同じである。それらは自己主張の産物でしかない。美と芸術の担い手が神のみであることに、自我はいつ気づくのであろうか。