意識が私の中に起こるときだけ世界は存在する。
ニサルガダッタ・マハラジ
瞑想は、意識に先立つ私に到達させるものである。さまざまな霊的意識が存在しうるだろうが、どのような意識の背後にも生それ自体が存在している。これだけが真の意味で原因である。672夜でしばしば原因の世界と呼ぶものは、今述べた原因の後の世界と関係している。つまり、我々は客観を見るが、その意味において客観の原因が存在すると言っているのであり、真の意味においては、客観と主観の双方の背後に生それ自体が存在している。ラマナ・マハリシ的に換言すれば、真我を離れて存在できるものは一つもない。
このような説明もまた真実に程遠いがゆえに虚偽に感じられる。我々が見ることのできる客観的な現象の世界、それを可能にさせている主観的な原因の世界、この二つは共に意識の領域にある。つまり、意識をもって活動することのできる世界である。我々が魂意識と呼ぶ世界はどうなのか。客観的な世界の反対の世界であり、純粋に主観的な領域、意識そのものの世界である。このときイニシエートが気づくのは、意識に先立つ普遍的な生命としての自己であり、ゆえに、それは意識よりも重要なものとみなされるようになり、それゆえジュワル・クールの言葉でいえば「魂は迂回される」ようになるのである。それは焦点の問題であるが、その焦点の先には既知のいかなるものも存在していない。一切を賦活する原因なき原因、名づけえぬ一箇の未知が原初の私である。それ以外はイリュージョンである。
このような説明が一体何の役に立つのであろうか。知的な娯楽や暇つぶしを提供するものであってはならないことは事実である。すべての話は、イリュージョンの除去のための知的な足がかりにすぎないが、そのような知性と関与しなくなったときのみ、非イリュージョンの世界であるリアリティーの世界は開示される。それは世界というよりも存在である。
ところが、我々人間の存在感とは、分離した自己感覚であり、客観的な現象の世界というイリュージョンの領域で経験されるものである。瞑想で魂によってマインドが統御されたとき、この個的な存在感は消え、意識そのものの世界、いかなる衝突も不和も存在しない霊的な平和の世界が見出される。これは魂意識である。後にこの意識ですら不完全な領域とみなされるようになり、霊的な喜びや至福といったものすら放棄されねばならないことを弟子は理解する。なぜなら、霊的な高位の感覚知覚でさえ、それを知覚したり味わったりしている(真の意味での)エゴが存在しているからである。これより先の世界――意識に先立つ存在の領域についてはいかなる媒体も語る能力はない。
とはいえ、人間が知るべき次の意識領域は、魂の世界である。この領域で初めて個人的な様相に由来する苦闘は終焉する。そこで苦しむ者は存在していない。人間がこの世界を知り、自身が個人ではなく分離なき一箇の魂であることを理解したとき、魂の領域がそうであるように、我々の世界もまた真の平和を知るだろう。本来であれば、自由とか、共和とか、共産とか、民主などといった政治家が好みそうな華飾にうってつけのアイディアを真に体現しようとするならば、その者自体が真の平和に到達していなければならない。我々の世界では、まだ平和を知らない兄弟が、メンタル的な理念として平和を考えている最中である。彼らの問題は、結果の世界が実在だと思っている点にある。それは本質的に重要な世界ではなく、副次的な夢幻的世界である。我々の物語は個人的なメルヘンである。仮象から目を瞑るならば、やがて原因の世界が見えるようになり、その世界で働くことが可能になるだろう。このような世界からの働きかけは、今のところ古参の弟子かイニシエートか覚者などと呼ばれるすでに形を持たない神と一致した意識単位たちにしか見られない。
私は世界平和を望んでいるが、それは必ずしも字義通りのものではない。結果の世界の平和は、原因の世界の平和を達成した後にのみ可能である。例えば私が六歳から十八歳までの間、自我意識を通して錯覚に生きていたゆえ、内なる不調和の結果として、自己生産的な破壊的・不幸的な現象の繰り返しを経験した。それで自我は自我に打ちのめされた。このようにして瞑想に入り、無知無能である自我を放棄したあと、つまり内なる平和と調和を達成した後、かつて繰り返し起きたような現象は私には起きなくなり、それどころか、何もかもが美しいことが理解できるようになった。原因の世界つまり自我においては魂の世界での平和と美と喜びが、そのまま結果の世界に映し出されて、何もかもが愛おしく美しく喜ばしいものになった。それは私が個人ではなく魂になったからである。この平和と、それに至るまでの苦々しい戦争経験を知るがゆえ、私は人類の世界――結果の世界の平和を願う人たちに、彼らにとっての原因の世界である魂の世界に到達してほしいのである。このようにしてのみ、彼らが求める幸福以上のものを永久に我がうちに引き込むことが可能になる。
しかし、人類を見れば分かる通り、人類のごく一部しか霊的平和を達成していないため、世は荒れている。周りでは、明日の総裁選がどうのこうのと話す者が今日は多かったが、誰がなっても大した違いなどない。変革を期待するのではなく、また他人の頑張りに期待するのではなく、なぜ直接的に今すぐおのれで真我を実現しようとしないのか。一部の人たちは、それは高位のイニシエートとか聖者のような方だけが達成するものであって、私たちが達成できるものではありませんと言う。彼らは達成したくないのである。なぜなら、達成が火急の案件になるほど苦しんでもいないし、結果の世界の何らかの現象でまだ娯楽に喜んでいられるし、それほど関心がないという意味で真剣ではないからである。ゆえに、何でも人のせいする。毎度のことながら、次もまた総理大臣を批判して別の者に変わるだけだろう。世は荒れたままだろう。なぜなら、我々が荒れているからである。
政治家には何一つ期待できないことを人類が学びつつあるように、霊的な教師についても同様である。誰にも何も期待などできない。なぜなら偽物だからである。本物とは、唯一なるものであり、それはすべての存在に共通する唯一なるものである。このようなことも分からずして、やれディープステートだとか、やれグローバリストだとか、批判したり怒りの対象にしたりして、心の争いを続けていてどうしますか。現代のアドルフ・ヒトラーのような者たちですら血を分けた兄弟であり、より大いなる視点からすれば、悪は善の救世主である。現象という結果の世界では、もし悪がなかったならば、誰も善を理解できなかっただろう。物語の中で役割があるだけである。そこに巻き込まれることなく、目に見える世界からは目を瞑り、静けさの中に心地よさを見つけ出してほしい。静かであるとは、調和しているということである。何も荒れてはいない。しばしば瞑想の初心者が、自身が静かでないことに悩んでいる。自我とはそういうものである。長年の瞑想が引き起こすのは、内なるキリストの再臨であり、自我による真我の発見であり、王の帰還である。本来主導権を握るべきお方の栄光の始まりであり、彼の力が自我に振りかざされるという祝福である。我々は、神からすれば殺害の対象である。そして、このような言い方に動揺する者は自我だけである。
誰もが自我で瞑想を開始する。ゆえに、最初は自我で様々な瞑想法を試す。熟練するにしたがって、瞑想法など自我にはないことを理解するようになる。このようにして自我とそれ以上のものとの調和が始まる。つまり自我の抵抗が弱体化するにしたがい、真我が輝き出す。すると自我は、この灼熱の太陽を完全に目覚めたまま瞑想中に認識するようになる。形で考えないでもらいたい。十分に調和したとき、戦争のように火が上から下から降り注ぐようになるだろう。ちょうど、ひどく熱いものに触れたとき、それが一瞬なぜか冷たく感じられるように、我々を焼き尽くす内なる火もまた冷たく感じられるものである。それは澄んでいて冷たいが熱を生み出す電気的な火である。我々は、このお方に焼き殺されるだろう。しかも喜びながら。愛と至福に包まれながら。不純なものはすべて火によって溶かされ破壊されるだろう。そして純粋なる我のみが残る。彼がこの世に目を向けたとき、彼は真に純粋な平和の使者となるだろう。不純を超越した死者として蘇りを受け、誰もがこの蘇りに値することを伝えるだろう。私には無理だと誰もが思わないようにするだろう。この世の者は裏切るかもしれないが、神は裏切らない。費やした瞑想の時間も決して裏切らない。一時的に瞑想がうまくいかない時期でも耐え忍んでもらいたい。その価値はあるどころか、はかりしれないものである。そして、この見出すということは、独学でしか不可能である。他の者が達成させてやることができないのは誰でも理解しているはずである。ならば、なぜもっと独学の意味を見つけないのであろうか。瞑想を教えるのは瞑想自体である。何が間違いかを教えるのは瞑想自体である。学者のように頭で考えるのではなく、そのような活動を控えるという知恵に至り、静かであることの中に神を見出してもらいたい。すると、自分のことには興味がなくなるだろう。自分の目標、自分の夢、自分の念願といったものは、すべて神の目的に置き換えられるだろう。それはなぜ我々が肉体で顕現し生きているのか、その背後にある神の計画を理解しゆくゆえにである。我々は、政治家の理念にではなく、また思想家のイデオロギーにでも聖者の教えにでもなく、神我一体としての神の計画と目的にのみ感応するようになるだろう。このようにして、霊と物質の争い、善と悪の戦いに終止符が打たれるだろう。その通り、我々の瞑想は平和のためである。