真の瞑想暦

「今日は瞑想が上手くいかない」と人は言う。通常、人はそれを自分の責任だと考えている。結果、「私には瞑想ができない」と言い、その事実に落胆しさえする。私の言う瞑想は観照である。正しい瞑想とは観照状態である。そこには誰もいない。瞑想に責任を負う者という概念は存在していない。まず、瞑想を含めて何もかもが我々の責任ではないという基本的な事実についての深い理解が必要である。もし、自分の責任ではないことを知っているならば、瞑想の出来不出来に関してすら無関心であり、ただの観照があるだけである。これが自由である。瞑想を阻んでいるのは我々であり、つまりマインドである。私は何らマインドと関与していない。人々がマインドと呼ぶ想念を生み出す原理は、私には存在していないも同然である。存在しているのは「私」だけであり、この事実だけで十分である。

「私は在る」とは、当たり前だが、「私は存在している」ということである。これだけが真実である。普通の人は、この事実の上に、架空の自我という想像が付着しており、一切合切の主導権や責任が、ありもしない自我に属していると本気で思い込んでいる状態である。この痛ましさを表現するとき、我々はその意識状態を地獄と呼ばざるをえない。「責任能力」という言葉があるが、これを有している者は霊的な世界では一人もいない。我々の錯覚の世界でだけ、そのような残酷な概念が横行できるだけである。我々は何に対しても責任が無いし、責任がないということは自由であるということである。そのとき、瞑想できないことが何の問題だろうかと人は言うだろう。自我がそう感じ、そう言うにしても、真我は背後からそれを見ているだけである。

魂の意識すら知らない瞑想の指導者がほとんどである。ゆえに、集中しろとか、集中の責任はお前にある、と教えられる。雑念が多い者は棒で叩かれねばならないのだろうか。叩かれた初心者は、集中できない責任が自分にあり、自分は至らない者だという想念に自作自演で苦しむだろう。このような茶番にて、無知な指導者と初心者は共に自我を強化する。ここまで話しても、ほとんどの人は、次に瞑想するとき、自分で瞑想しようとするだろう。「自分でする」とは、「自分に責任がある」という想念が前提として存在するということである。行為者というものは真実の領域において一人も存在していない。人々が私と呼ぶ行為者の概念は、強迫観念の一つであり、自身でこしらえた監獄と檻であり、自由の喪失であり、また知性の放棄であり、意識を混乱させる装置であり、ゆえにこの領域だけが地獄である。一方で、観照においてその「私」は無い。意識は拡大し、すべてを自身の内部に包含し、つまり一切を超越し、真の自己が完全に解放されており自由であることを認識する。そこには唯一なる自己が存在するだけである。これが究極の自足である。

以上が分からない場合、瞑想は行為に堕落するだろう。「瞑想をする」と表現するだろう。誰が瞑想するのだろうか。自分がするものだ、と皆が思っている。それは思い込みであり、一つの間違った想念との同一化の結果である。瞑想する者はいないし、瞑想は行為ではなく存在の状態であるし、その存在は一つなるものである。一つとは、どのような「私」も存在しないということである。調和とは、どのような分離も存在しないということである。これらを理解できる者とできない者との差、つまり違いは何であろうか。単に瞑想の歴の問題だろう。するとこう反論されるだろう。私はあなたより瞑想歴が長いが何も起こらないと。彼にはこう反論しよう。あなたの瞑想は瞑想ではなかったということである。あなたは瞑想を深く探求してこなかった。おそらく他人の瞑想法を瞑想だと思ってやってきたのか、瞑想の責任者が自分であるという考えから、瞑想法が存在するという無知な結論にしがみついたまま、あらゆる瞑想法をはしごしてきただけではないのか。それはすべて自我の活動ではないのか。瞑想暦とは、自我の活動の歴ではない。

初心者は瞑想を自我で行う。これは批判ではないから観照するようにただ読んでほしい。一方で、初心者ならざる者とは魂である。瞑想状態は魂の意識状態である。魂の意識状態とは、単に自我が存在していないときの純粋な意識状態というだけのことである。簡単にまとめると、平均的な人間は自我しか知らない。観照に入るような者は自我を乗り越えて魂としてただ存在しているだけである。この違いは何によって生まれるのだろうか。先ほどは瞑想歴と言ったが、瞑想歴が可能にするものは、自我と真我の連結である。そしてこの連結を可能にするものは、専門的にアンターカラナと呼ばれる内的な橋である。私ならトンネルと比喩するが、古典古代の文献は橋だと言っている。象徴的には橋だが、感覚的には貫通の性質を帯びているゆえトンネルである。人間はトンネルを掘って道を作ってきた。掘る最中は暗闇である。掘り終え貫通したときだけ光が差し込む。多くの初心者、つまり初心者という単語でまだ傷つくような自我たちは、自身が神聖な存在であることを知らぬまま、閉じ込められた形態の内部から、闇に囲われたまま、貫通するかも分からずにトンネルを掘っている最中であり、しかしそれが意味するのは、もう少しで貫通するということである。

トンネルを掘るのは魂である。掘る力は魂のフォースである。したがって失敗はない。必ず正確に掘られ、正確な場所へと貫通する。この瞑想というトンネル堀りにおいて、個人がすべきことは何もない。ただ頭部内で工事を認識しているだけである。これが集中の意味であるが、普通の人は瞑想中に別のことを考えている。考えているということは、不調和の状態であり、そこには大変な苦痛が存在するということである。したがって、苦痛を感じる者は進歩が必然的に早く、つまり調和させる内部調整を見出しやすく、逆にまだ苦痛が感じられない場合は、もうしばらく瞑想を積み重ねるべきだということである。瞑想は、最初だけ時間がかかる。一定の段階までトンネルが掘り進められたとき、わずかながら光が差し込むようになる。これがイルミネーションであり、魂の光である。これは人の無知に打撃を与える知恵である。これが啓明である。彼は賢くなる。考えずに理解できるようになる。なぜならこのとき、彼のマインドはそれなりに魂に掌握されているからである。これは直観ではないが直観的なものであり、実際はイルミネーションを受けたマインドであるが、彼はこの光から物事の正誤を学ぶようになる。そして聖語を習得するようになり、どの音調が自身の諸体を調整するのに最適であるかを突き止めるようにもなる。こうして恩寵が現実のものになる。

神の不在を嘆いていた者は、神が絶えず導いてくれていたことを知る。この世では、神仏を拝むという光景が見られる。彼らは自我であるため、自身の欲望と恐怖によって神仏に拝み、あれをください、助けてください、といったことで拝む。真に神そのものに通じた者だけが、拝むという意味、つまり平れ伏すことの意味を知っている。それは、無知が知恵によって覆され、自我が自身の考え違いによくよく目覚め、神性の素晴らしさをここまでかというほど味わい、錯覚してきたおのれの無知に恥じ入り、謝罪と感謝の気持ちがいちどきに押し寄せ、すべてを神へと明け渡しますという言明がついに輝きだすときの象徴が、神仏への拝みである。それは歓喜の瞬間である。地に頭をこすりつけるということは、解放と自由の直前の最後の一礼である。次の瞬間、彼は引き上げられ、なにものでもなくなり、我光なり、我神なりという境地すら通り抜けて、形態は「塵」と化し、自我は「灰」と化し、閉じ込められていた何か、名づけることのできないわれわれじしんである何かが、ついに解放を知り、最後にこう言う。「事すでに成れり。我はアルパなり、オメガなり。初めなり、終りなり。渇く者には命の水の泉を価なしに与へん(ヨハネの黙示録 21章6節)」。

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