「移民問題についてどう思うか」と問われた。そもそも視点が違う。逆に問うが、それは「問題」なのだろうか。誰にとって、どのような部分が問題なのだろうか。それは見ている世界、生きている世界を間違っているから巻き込まれる類いの問題ではなかろうか。私もあなたも日本国籍をこの世で持つかもしれないが、だからといって生命は日本人ではない。私もあなたも肉体の世話をしているかもしれないが、だからといって生命は肉体でもなければ人間でもない。現在まだ一部の国で推奨されているような移民政策は、いつものように、共生などの聞こえの良い、一見すると善きアイディアに見えるものに隠れた悪事つまり悪意のフォースのこの世における顕現でしかない。その種のフォースは政治でどうにかなる「相手」ではない。それは悪霊のようなものである。悪事を働く人間を破壊しても、悪霊自体は別の媒体に乗り替わり、別の表現で悪事を遂行するまで働くだろう。政治も行政も司法も対処療法に属するが、私は根本的な話にしか興味がない。――つまりは恐怖心。
問題とは、問題に対する恐れであり、そして恐れとは、実在ではないもの、必ずしも必要ではないものにしがみついているときに生じる感覚的な錯覚であり、それはメンタル的な錯覚に由来している。我々は自身を日本人だと決めているがゆえ、壊れゆく日本に怯えており、移民を阻止しなければと考える。仮に政治で移民を阻止したとして、また矢継ぎ早に次の問題が起きるゆえ、その人は再び恐怖心に唇を震わせるだろう。このどこが解決なのだろうか。我々の問題は、すべて我々の無知ゆえに生じるものである。問題の本質は結果の世界の現象にはなく、それらを恐れる精神にある。そして恐怖は、一体性を知らず、分離した個人の意識に生き、肉体を自分と思って生きるがゆえに生じるものであり、ひとたび自分が人間を超越した一なる至高の存在であるという境地に至るならば、恐怖とは関係がなくなるものである。恐怖ではなく、精神はひたすら愛に支配されるものである。その結果、いつも喜びに満ち、この世で壊滅的な被害を被ろうが、不幸や惨事に見舞われようが、そこから意識と焦点が切り離され、騙されることなく、惑わされることなく、神つまり唯一なる真我から意識が外れ落ちぬならば、至福ではあっても怖がるようなものはない。このような話だけが根本的だと私は思う。
我々の問題は決して終わらない。次から次へと起こり、しかもその原因は我々の内部にある。自我や個我ゆえの問題である。誰かのせいでもなければ、外側の問題が問題というわけでもない。移民問題が解決したとしても次は別の問題に恐れるだろう。この繰り返しにきりはないだろう。普通の人に、ここまで考える力はない。恐怖が先に立ち、恐怖に縛られ、恐怖に脊髄反射するだけで、恐怖自体に対して知性や魂のパワーが静かに適用されることはない。絶えず問題を扱っており、その根本である自身は扱わない。言い換えると、問題が好きなのである。人は問題を解決してほしくて「助けてください」と言うが、解決しても、別の問題をまた作る。また自作する。一方で真の賢者は、マインドの自作傾向を十分に経験し終えており、ゆえにもはや関心の対象にはならない。騒いでいる人がいても騒がせておけばいいという強烈な無関心である。恐怖に対しては愛や光のエネルギーで逆に包み込むことで自動的に溶かしてしまうだろう。錯覚とはせいぜいその程度のものである。
問題に対処するなかれ。問題ではないものを問題だと思わせる己の精神に目を向け直せ。問題とは私である。私のせいで、それは問題とみなされている。もし我々が個人を超越し、マインドを退け、魂であり、ひたすら愛と喜びに生きうるならば、その領域に人間の世界の幻想的な話が寄り付くことはないことを知るだろう。自分が個人であったり日本人であったりしたときには問題に見えたものも、途方もない喜びの中に消え去ったことを知るだろう。このような意識だけが問題から自由なのであって、政治とかデモ活動とか平和運動とか、あなた方の考える問題解決手段は決して根本的ではありえない。この理屈は、考えさえすれば分かることである。考えたくないならば、それはまだ問題が好きなだけではなかろうか。
「しかし現実問題は」と言われる。「いったん真我とかその手の話は脇に置いてください」と言われる。つまり、非現実的な話はやめて、現実について話しましょうという態度を見せられる。私があえて逆転せねばならないのだろうか。私は不可逆であるため無理である。たとえば今日、もうしばらくしてから肉体は一日か二日ばかり忙しいだろう。人によっては嫌なこと、行きたくないこと、憂鬱なことであるかもしれない。それはこの世と肉体人間を現実とみなしているからである。肉体はこの世の話に巻き込まれ、様々な現象を通り抜けるが、「私自身」が巻き込まれるかどうかは、私にかかっている。私が問題に同一化するか、真我に同一化したままであるかの違いである。私は後者を選択させる力に個人を明け渡したがゆえ、ひじょうに至福である。「自分の問題」というものはなく、あってもどうでもよく、目は小さな自己ではなく、唯一なる全体を見ており、ゆえに愛に包まれている。「向かうところ敵のない愛」である。逆転すべきは私ではなく、問題を抱えているあなた方である。そのために、つまり個人と関わらぬために、個人の楽しみではなく、神の意志つまり奉仕という魂の楽しみに自身を逆転させるようアドバイスしているのである。
奉仕はハート・センターを目覚めさせる特に優れた方法であり、服従は、魂のフォースの衝動に対する二つのヘッド・センターの反応を呼び起こし、それらを魂の認識の一つの領域へと融合する上で同じように有効である。これらの衝動の持つ力を理解している人が何と少ないことか。もし欲求を満足させたいという衝動が人間の形態生命の基本的な衝動であるならば、奉仕しようという衝動は人間内の魂の同じく基本的な衝動である。
アリス・ベイリー「秘教心理学・第二巻上」p.198
「これらの衝動の持つ力を理解している人が少ない」から672夜のようなものを何年も書いている。その力は今のところ知られざるもの、秘められたもの、いわば「裏技」である。「RPG」という記事を前に比喩のために書いた。私はゲームにもストーリーにも興味がないゆえ、最初から無敵に設定し、早くクリアしたいタイプである。したがって672夜はこの世の裏技について書いているものであるとも言える。だから、知っていさえいれば簡単なのにと思うのである。こっちは裏技を共有したくて仕方がないのに、そんな裏技なんてないだろうと思われている状況にある。あるいは、上の引用のような少し専門的で難しい文章の装飾を受けて、自分には関係のない話だと思われている。しかし実際は、全員に関係のある極めて切実な話であり、いつかは避けて通れない話になる。だからと言って、奉仕をしようと話を持ちかけているわけではない。奉仕とは、物質界での行動を伴う形になる場合もあるだろうが、それは結果的なものであって、私が話を持ちかけている裏技とは、魂である。自分が日本人でも人間でもないことを瞑想が教え、真の自己である魂と接触できるようにさせるのが瞑想であることをスクープしているのである。
人間の領域から魂の領域へと移行する移民が少なすぎる。霊的領域への移民はあまりにも少数民族である。それは、自分を日本人だとか人間だとか、この世の話に執着しているからなのだが、この錯覚を溶かすべく、瞑想に活路を見出してもらいたい。するとあらゆる問題から自由になるだろう。あらゆる人や物事を愛せるようになるだろう。生きることが嫌なことではなく美しいものになるだろう。この至福の王国に招かれる者は多いが、移住を決意する者はまだ少ない。実際はそれは場所ではないため、つまり時空間内の話ではないため、即座に我自体なのであるが、それを認識したり、それが現実の話になるまでは、アンターカラナのような連結させる内的器官の発達が必要であるため、意識内においては時間がかかる。何年も瞑想することになるだろうが、それは好きでやるのだから、気づいたら何年何十年とやっていた、というものになるだろう。その間に勝手に達成されていたと言うだろう。一方で、霊的なものを自我の私欲で求め、結果や成果に執着し、報酬のためにやる瞑想ならば、彼は永遠に自我の奴隷であるだろう。そのような挙動から退き、注目を向けず、内に、つまり我に向き直り、ひたすら我で在るべきである。すると、謎は紐解かれるだろう。裏技が習得されるであろう。我々の移民手続きは完了されるだろう。これが真我実現である。
