「愛情を受けて育つことがなかった」ことを言い訳に、非行や悪行に憐れみの目を持とうとする風潮がある。そのような者ほど、愛情とは何かを理解したがらない。愛情と愛はパーソナリティーと魂ぐらいに違うものである。愛情とは、対象を「どうにかしたい」という利己主義を含蓄している。多くの知的な大人がこれを理解できずにいる。いわゆるグラマーが理解できないのは、情緒的なフォースが強力だからである。よって、愛情という名に隠れた自らの腐敗を見ること、認めることを「情」が遮り難しいのである。
花に実験をしたという話がある。一人は花に良い言葉をかけ続け、一人は花に悪い言葉をかけ続け、最後の一人は花を無視し続けた。最初に枯れたのは無視された花だった。「愛情を受けたかどうか」ではないのである。愛情ではなく、関心を受けたかどうかである。無視されがちな子供は、しばしば注意を引くために馬鹿なことをする。今日、かまってもらいたいという欲求は多くの子供とその延長である大人の腐敗の原因になっている。関心を向けられたあとは、認めてもらいたいという、いわゆる承認欲求が続く。これらは分離したパーソナリティーに焦点化している意識たちに見られる破壊的な無知の傾向である。
この話を瞑想的に考えたい。「私」はどうなのか。「汝自身」はどうなのか。己を知るためには、あるいは、己と呼ばれているものの実態を見るためには、そこに「関心」がなくてはならない。そこで、我々は瞑想者に動機を尋ねることがある。なぜ瞑想するのかと。ある人は真我実現のためと答える。また別の人は真理を見出すためとか、苦しみから逃れるためとか言う。つまり、己に関心がないのである。別の何かに関心を持っている。そして己は無視されている。これがすべての苦しみの原因である。
己よりも、理想や欲求や逃避に関心を持っていることが瞑想を妨げている。(いつものように)前者をA、後者をBとするならば、Bに特化して餌をやり、育て、拡大化している状態である。Bは自我である。そしてAは真我である。長いあいだこの事実は見えない。目的や到達という概念、つまりBという錯覚が利用されねばならない時期がある。これが苦しみを生み出すだけの無知の道でしかないことをやがて人は知る。Aの周りに無数のBとかCとかXがあり、人間の目と関心は、常にAではない何かである。ここに霊的な腐敗の原因がある。物質のフォースは悪を体現している最中である。悪いことばかりする無知な子供の状態である。このとき大人は「愛情」で接してはならない。つまり、対象に変化を求めてはならないのである。反対に、真の「関心」は対象の変化に無関心である。霊的な関心とは、対象そのものへの愛と許しにほかならない。それは愛情という名の欺瞞ではなく、愛である。そして愛は常に知恵であり理解である。これが分かるとき、我々は何もしないし、ただ見るという極意を習得するだろう。それは魂の目、魂の関心であり、この自己注目が、魂の一なる存在状態へとやがて意識を導くだろう。
子供が罪を犯したとき、「愛情を注がなかった私がいけないのです」と世の母親方は泣きながら言い、自己憐憫に浸り、こうして自我を拡大することに裏ではほくそ笑んでいるが、それに気づく知性は見られない。知性とは、母親のキャリアや出身大学が示すものではなく、母親のパーソナリティーつまり自我の静けさの度合いによるものである。現代の教育の焦点は低位マインドの訓練であり、それは人を騒がしくし、霊性を無効化する。新時代の教育の焦点は低位マインドを沈静化させる源、つまり魂との連結になるだろう。ここが基本にならねばならない。自我に関心を持つ時代が終わることで、分離した自我たちは死滅する時代が訪れ、多くの兄弟姉妹が原点つまり神とその意識に回帰することで、神の目的、生命そのものの目的は達成されゆくだろう。
関心とは、対象にエネルギーを注ぐことである。エネルギーは思考に従う。そしてエネルギー自体が霊的に変性させる力であり、自我の個人的な目的つまり抵抗するフォースがそこへ入る余地はない。これが「明け渡し」と呼ばれているものの本質的な意味である。だから先日、ある人が次のように問うた。頭蓋骨の圧迫感、ピリピリする感覚が強く、私にこの浄化が起きてから、早くも三十年が経とうとしているが、終わりはあるのだろうか、いつまで浄化は続くのだろうかと。ここで答える。あなたの文章には、「私」か「自分」が多く登場するが、これは自我意識の観点から見ていることを直に示している。「私に浄化が起こる」と言っている人と、関係がないと思えるようになるまで、流入するエネルギーは、あなたに働きかけ続けるだろう。あなたというフォースの集合体に働きかけ続けるだろう。諸体のフォースがエネルギーに変性され、融合したとき、いかなる衝突もなくなり、感覚と感じる人は消え去るだろう。
個人は、「自分」に起きることに関心を持っている。こうして「自分」が強められる悪循環が続く。真の関心とは愛であり、変化を求める精神とは無関係な、聖なる無関心のことである。魂の目は関心だが、それは非人格かつ無執着である。言い換えれば、神に意見をしない。なぜなら、彼は神に溶け込んでいるからである。「万華鏡のように変化」するものを我々は扱わない。それは傍観の対象でしかない。無関心の対象でしかない。冒頭で花の実験でたとえたように、自我と呼ばれているものを死滅させるのは、自我を変えようという関心を持たない無執着な関心、すなわち関心の対象に注ぎ込まれる高次のエネルギーの仕事である。個人を引き上げるのは魂である。低位我を助けるのは高位我である。「私に浄化が起きる」と考える者、そのような想念をすべて無視できるようにやがて我々はなるだろう。想念の背後に傍観する融合体が存在している。この内なる自己に関心を持つとき、自己への集中が自然に訪れ、我々は愛に満たされるだろう。放蕩息子のように、「もうどこにも行かない」と誓い、愛に、許しに、関心に、号泣するだろう。