実用的な器は、満たされて初めて意味をなす。器に何を満たすのか。コップに水を、車にガソリンを、あるいは私に怒りを、人格を満たし盛りつける。こうして器は用途となる。
媒体を器と表現する場合がある。我々は器である。神学的に言えば、霊の器は魂であり、魂の器は人間である。我々器は、何でおのれを満たしているであろうか。気分や欲求だろうか。であるならば、アストラル器のエレメンタルは喜ぶであろうが、魂という器は人間という器の掌握に失敗していることを意味するだろう。
誠実な生き方、つまり奉仕的生活傾向、あるいはそれに加えての瞑想や学習、これらによって人間という器はより静かになり、純粋になり、魂の力を満たしうる器へと変質する。この場合のみ、魂が現れ、意識内での知覚と接触が可能になる。魂が注がれる器へとおのれを磨き上げることが、いわば見習いの初期段階の目標である。その後の見習いの道では、満ちてきた魂の力に生き、より多くを満たせる器に仕上げることが道となる。人間という器が完全に魂の力で満たされたとき、その器は神の用途となる。新しい意識、新しい器となる。
いかなる器もそれ自体では動かない。人間という器は、現在の進化段階において通常は情緒つまりアストラル界のフォースで満たされ動かされている。事実を述べると、このアストラル傾向によって、この世で知的とみなされる器たちが、互いに殺し合ったり、資源や領土を奪い合ったり、あるいは好き勝手に遊び生きたり、飲み食いを楽しんだり、性欲に溺れたり、それらが無理であれば孤独や無能に悩んだり、そのような自己の憐憫に耽ったり、絶望してみたりと、アストラルの器を満たすことに絶えず終始している。このどこが知的なのだろうか。知的ではないという事実を見るならば、それは知性ではないに違いないと考えるのが知的芽生えではないのか。
平均的な人間という器がまだ知的になりえないのは、真の知性を覆い隠す内容でおのれを満たし続けているからである。これを無知と呼ぶ。東大に行こうが無知であり、学者や大臣になろうが、あるいは賞という賞を取りまくろうが無知である。おのれを知らないのだから。おのれの何たるかに精通していないのだから。これは批判しているわけではない。器に間違いを注ぎ込むことを止めよと言っているのである。我々が自分と思っているものは、あらゆる形態がそうであるように、何らかの力や生命のための器でしかない。誤った力を注ぐとき、それがアストラル的な力であれば欲求的な生き方となり、常に満たしても満たせず、欲求不満によって最終的には暴走し自己を破壊するが、通常は途中で痛い目に遭うことでそれが間違いであることに気づく。もしくは法律や人々の監視の目や、何らかの歯止めによって、満たしたくても満たせぬ欲求を溜め込み、その溜め込まれたエネルギーの腐敗で病気を作っている。いずれにせよ、これらの愚行から人間は自身の生き方が何か間違っていることに気づく。それは間違った力を器に注ぎ満たしているからである。これはオカルト学の初歩的かつ絵本的な内容である。
こうして賢き者は、おのれという器を満たす内容物を、入れ替えられないかと考え始める。汚いもので満たしても、ずっと汚いままであることを理解する。結果、「自分が嫌い」な人生を生きる羽目になる。ならば、それまで満たしてきたものを捨てないと、新しいものを入れられないのではないのか。あるいは、器が賢く知的になるならば、それまで満たしてきたものでは自分は満たされないことを自覚するのではないか。この世のものでは、決して私は満たされないことに気づくのではないのか。この啓明によって、人間はそれまでの悪い付き合いから退くようになり、おのれに入れるもの、入れてきたものを選別したり識別したりして、関わりを持たなくなる。この世のものでは満たそうと思わなくなる。弊害が多すぎることを経験によって学んできたからである。これほどの知的器になったとき、どうして神の力が注がれずにいられるであろうか。神から見放されている者とは、神に反するもので己を満たしている者であり、その間違った内容物を捨てぬかぎり、どうして器が神聖になりうるだろうか。どのようにして高貴なる神の力が注がれうるだろうか。
毎日、多くの器を私は見る。波動的に、何によってこの者はおのれを満たしており、何によって動かされており、どのような過ちに生きており、どのような経験と学習とカルマが待っているかを瞬時に知る。これは助けたくても助けられない。本人が満たす内容物の間違いに気づくまで、色の着いた水は注がれ続き、大なり小なり黒的な愚行に動かされ彩られねばならないのである。水は純粋や浄化の象徴であり、それは無色で無臭で無形である。それは神のエネルギーのこの世の象徴である。ゆえに肉体を癒やしたり浄化したり生かしたりするのはこの世ではまず水である。肉体に水が多分に満たされていないかぎりその器は壊れる。だから良い水を飲もうと言っているのではない。その水が象徴している真の力でおのれを満たすことに目覚めよと言っているのである。馬鹿な力で満たして快楽に生きたりするより、賢き力で満たして神の目的に生きる方が、天地の差より遥かに良きものであることに人間は気づかねばならない。それは、人間という器が磨かれ、魂の力が注がれ満たされ、人間を動かすのが魂になったときに初めて理解されるであろう。この真の力、真の意志、真のエネルギー、真の方向性、真の勢いが器を満たすようになったとき、どうして神の美しき計画と目的を知覚せずにいられるであろうか。
器に何を注ぐのか。憎悪なのか。欲望なのか。好きな食べ物なのか。そんなことしか求められぬ器なのか。我々は無意識の陶芸家であり、その無意識と無知ゆえに、意図せずして未来に悪しき運命を形づくっている。賢き者とは、意識的な陶芸家であり、おのれという器を、神の用途であるために意図的に喜びながら練り上げる者である。このような者たちは賢いが、同時に恐ろしいほど無邪気であり、子供である。この象徴が天使である。あるいは実際に形態を作り上げているのはデーヴァである。このようなデーヴァと一緒に協力して器の形成に喜びを味わえるようにならねば、神の器の陶芸家とは言えない。この世の陶芸家が、水と、粘土と、火とで意図するものを形作るように、神の水と、浄化された質料と、神の火とを用いて、慎重に、念入りに器を神の芸術の域にまで練り上げることが人間と魂の仕事である。こうして霊の器である魂すなわちコーザル体が完璧に仕上がったとき、その者は完成品であり、神の完璧な用途であり、もう完成させたのだから、この世に生まれてくる必要はない。
いま述べた話はかなり実践的な話であり、しかも至福の道である。そのような至福は、独り占めしたいと思わせるような低級なものではないゆえ、至福は知恵ある器を通してすべての兄弟姉妹に愛として共有される。またそうでなければならない。なぜなら、それだけが真の喜びであるから。おのれに生きる者は自滅するであろう。おのれを解放し、閉じこもらずに心を開き、恐れずにすべてのすべてへの愛に生きるならば、もちろんそのとき我は無視されるが、その無視によって低級な粘土の中の悪質で粗雑な部分は取り除かれ、最高級の粘土へと変質しゆき、愛に生きることによってまさに真の陶芸家は神の美を形作るのである。一生を終えたときの作品に、どれだけ差が出るかは、何を器に注ぎ、よって何に生きたかに依存する。これほど単純な事実から目を背けてはならない。今生で作品を仕上げきるつもりなのか、先延ばしするのか、先延ばしすることで迷惑な存在になるのか、迷惑であることはすなわち苦悩の生涯を描き出すゆえ、何の意味もないのではないのか。こういったことを多少頭で理解したならば、あとは実践しか残されておらず、その実践によって神の陶芸家である我々は自身を完成品へと導く。そして導く者、力強い助け手である者、間違いのない練り上げ方を教える者は、内なる魂である。このお方と接触した後は、そのお方こそが自分であることに気づかねばならない。これが真我覚醒へと導くものである。それは神の美術と芸術の完成を示すものであり、そのとき我々の意識は、すべてに美を見ることしかできなくなるであろう。ゆえに秘術とは、つねに美術である。その御業は、はかりしれぬばかりの美を生み出すであろう。つまり、神自体が、自身の器を完成させるのである。
