真我顕現

私は、これを書いている男と無関係であることに喜んでいる。この文章は、すべての人に当てはまる。誰もが、自分を信じて生きている。それが彼だろうが彼女だろうが、本物とはいっさい無関係である。彼が悪いことをしたとしよう。普通の彼は罪悪感に悩み、悪事に対するこの世の報いに苦しむ。自分が悪事をしたと考えているのである。彼は、条件づけられた身体の行為に責任があると思っている。ところが事実は、身体やその行為は、この世に属するものであり、この世の連鎖の必然的な部分でしかない。そこに善悪はなく、責任もなく、永遠の視点からすれば完全性しか存在しない。

しかし人は、その自分に苦しんでいる。身体的人間や、精神的自己などが、自分であると信じるがゆえである。彼女が瞑想するならば、彼女は彼女と無関係であることを知るだろう。背負ってきた偽物の自己の責任から自由になるだろう。

あらゆる条件づけから自由な存在を知るだろう。これが真我である。身体的自己の見た目上の行為は勝手に続くが、意識はその身体や精神にもはや縛られることはなく、真の自身であるものを知ることになる。それは生命である。生命はこの世から自由である。たとえ身体が病気でも、生命は無限に至福であり、永遠に病いを知らない。

みなさんが自分と思っている、その思いを静かにさせる力がやがて訪れるだろう。あなたが、その名前である者ならば、それは地獄である。彼がいかに世に名を挙ぐべき者であれ、彼女がいかに取るに足らぬ者であれ、あなたは自身が彼や彼女と完全に無関係であることを知って喜ぶだろう。したがって、彼や彼女にまつわる一切の責任から自由になるだろう。彼や彼女は偽物である。本物は、真我は、偽物から自由である。

このような文章が「探求者」に変革をもたらさなかったり、理解をもたらすことができないのは、このようなことについて考えるからである。私は何も考えない。マインドはそれ以上のものによって勝手に統御されている。それゆえに、真の自分であるところのものが開示されている。マインドで生きるならば、錯覚に飲み込まれるだろう。私は静かにしてきた。彼はこの世に生き、この世で動いたり話したり責任を感じたりしてきただろうが、その合間に静かにする時間を重視した。この男は、自身にも世の中にも完全に飽いていた。それらの騒々しさが好きではなかった。静かであることだけが最終的には救いであった。睡眠時の夢さえも耐えなかった。マインドが統御されていないときは、いつであれ苦痛だった。そしてマインドを統御する訓練を私はしなかったし、マインドを実際に統御したのは私ではなく本物の方である。静かにする自我に、本物が訪れ、天の御国を教えたのである。それは一切から無関係であり、一切から自由なるものであった。私は、私と関係がないということに強烈に喜んだ。

ところが、人類は、身体的自身を含めた森羅万象の分離した無数の「私」のなかに閉じ込められている。かわいそうに、自分とは関係のないものを自分だと思わされている。不細工な者は整形せねばならず、無能な者は認められるために犠牲を払って努力せねばならない世界に生きている。そういう意識たちを批判する意図はないが、事実によって攻撃する意図はある。眠って起きない者の頬を叩く意図はある。多少のショックを利用する意図は常にある。

真に自由に導かれる定めにある者は、極度に悩み苦しんだ者であるに違いない。人類は、誰であれ霊的に才能を持ち合わせて生まれてくるが、ほとんどの人が、やがて死すべき自己に没頭している。完全に知性から切り離されている。多くの人が私より学があり頭も良いが、完全に私より無知である。自分というものに悩み苦しみ、もう自分でありたくないとか、もうこの自分には飽きたとか、もうこの自分であることに用がないといった、自己に対する完全なる諦めが起きるほど苦しんだ者だけが、耳を傾けうるだろう。自身に没頭している者は、誰も話を聞かない。言い換えると、その自分で話を飲み込もうとする。だから意味が分からないだろう。自身で解釈するということは、まだその自身で生きており、まだその自身を諦めていないからである。その自身は、あなたではない。これだけ覚えていればいい。したがって、その自身が何者であろうが、無視してよい。彼や彼女の喧騒に騙されず、無視して静けさに身を委ねることだけが本物への道である。

人類は無知ゆえに悲惨な意識を体験している。ニュースを見てほしい。みなが自分に生きており、分離して争っている。競っている。魂的な若者たちであふれている。経験不足ゆえ、経験に生きている。代償が大きすぎる。このような世界の話には、私は完全に飽きた。つまり、全く無興味である。すなわち、自身からは喜んで去った。この世では、この男はまだいわば生きており、話したり動いたりしているが、この人と私は一切無関係であることに、私はひたすらに喜んでいる。自身を捨て、無限の天の至福を選び取った。存在すると思われているこの世は、私の意識からは落ちた。消え、知覚さえされなくなった。この世を認識するためには、この世に焦点化している工夫がいる。この種の工夫は苦痛である。いかなる努力も苦痛である。自我の意志は苦痛である。それは真の意志への勝ち目のない挑戦である。つまり、人間意識は、このような悲惨な抵抗の恒久的な持続によって、その軋轢を土台にして生まれている。

だから、今生、これを書いている男で生まれたとき、生まれて即座に苦痛だった。何年も、何によって苦痛なのかが分からなかった。この世の悩みで苦しんでいるのではない。生きていることが苦痛だった。この意味がわかるまで、長年かかった。私ではないものに生きたがゆえに苦痛だったのである。この物語にヒントを得てもらいたい。私は自身の苦痛がなにゆえであるかを分からなかったという話である。それは、霊と物質の区別ができなかったからである。エネルギーとフォースを識別しなかったからである。意志と個人的意志の違いが分からなかったからである。つまり、絶えず内的な争いを土台とした意識に焦点化していたため、いかなる生においても苦痛が根底にあった。これを徹底して理解した。

以上を真剣に読む人は、このような識別を学んでいるさなかの意識である。だが、まだ抵抗している。方法を探したりしている。そんなものはない。本物だけが在ることを認める日が来るだろう。それは、偽物であるそのあなたにあなたが見切りをつけた後に来るだろう。その自己よりも、静けさや沈黙――無の方を好むように、やがてなるだろう。多くの人にはこれは無理である。まだ自分で何かを経験しようとしている。それはそれでいっこうに構わないが、何になるだろうか。個人的意識の行為は、カルマの連鎖を生み出すだけであり、無意味である。同じようなことを繰り返すだけである。繰り返す人は放っておいて、本物に焦点を引き戻す必要がある。その自分は変える必要がない。自己変革や、自己修正に人々は夢中になっているが、真に賢き者は、自身を無視する。偽物の変化に没頭しない。焦点を変えて、本物だけに集中する。これが瞑想の意図である。

経験をまだ欲する者だけが、「どうすれば」と問う。瞑想者は、どうもしない。ニサルガダッタ・マハラジに、真我を実現するために何をやったかと質問者は問うたが、彼は「何もしなかった」と答えた。こういう者が本物である。「する」ということはありえない。そのような同一化によって、どうして真理を知りえようか。偽物と同一化したときだけ、「する」という行為感覚がある。本物だけに焦点化するならば、唯一なる生命が在るだけである。それは「する」とは無縁である。生命は「しない」。生命は「在る」。これらのことは、私も最初は分からなかった。そして、分からなくてもよかった。つまり、分かるための努力をしなかった。一時的にしたことはあるが、すぐに無意味だと理解した。一切の「する」は神の侮辱である。個人の意志が、どうして真の一なる意志に勝ちえようか。我々の喧嘩は勝ち目がない。人間と神の喧嘩は勝ち目がない。物質的自己は霊に勝ち目がない。勝つ必要がない。この意味が分かるならば、あなたは、決して「どうすれば」などと問わない。到達を求めない。到達などないし、それは観点である。作り話である。そのようなマインドの動きを無視して、傍目には白痴のように瞑想と沈黙に没頭するならば、しかも日に一時間とか二時間とかでよく、可能なときに没頭し続けるならば、やがて向こうから訪れる。融合へ導く破壊の神が訪れる。彼に従うことが至福であり、父に抱擁されることだけが愛である。すると、すべてが美しくなるだろう。なんとすべての美しきことか。そして、このような話を信じる者の、なんと少なきことか。

助けてくださいと人は祈る。自作自演である。助けられるが、その者は助けを実際は望んでいない。私は強調するが、いかなる悪人であれ無関係に真我実現は可能である。その人の、いわば人となりは無関係である。信心深さや努力の量も無関係である。むしろ、そのような一切と関わらないことによってのみ、無限の慈悲との融合が可能である。父は、抱擁しようと待っている。人間は、父を無視して、おのれに没頭している。その自分という騒がしさに圧倒されている。そこで、真に幸運な定めの下に生まれた者は、瞑想の概念と出会う。瞑想に出会い、瞑想することが可能な確率の、なんと低きことか。霊的才能に全人類が恵まれた状態で誕生するが、それを活かす術に出会う確率の、なんと低きことか。瞑想に方法があることを教える者に騙されることなかれ。たしかに、部分的には可能である。前にも書いたが、私は意識に戻ることを訓練したことがある。意識に帰り、「戻った」と言う。この繰り返しである。これは部分的に非常に効果のあるものだった。しかし、そのような方向性へ導こうとする力を発見するならば、集中というものはその力によるものであるし、まさにそれが恩寵である。したがって、個人の一切の意志は、根源の意志に明け渡されることにいずれはなる。それが集中である。

どうか、あなたが誰であろうと、その人があなたではないことを信じてもらいたい。その人だとあなたが思うならば、永遠にその人に縛り付けられる。ただ静かにしているならば、徐々に静けさがより好きになり、偽の自己で生きることは、このうえない苦痛となり、真我だけに向かうようになるだろう。この世のいかなるものも、あなたを満たさない。空虚を埋めるために皆が素材を探して彷徨っているが、この世のものでは埋められぬことを悟り、自身を捨て、瞑想で本物に接近してもらいたい。

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