瞑想の報酬とは何か
瞑想の実践がもたらす意識の変容は、個人的な報酬の獲得とは全く意味が異なる。多くの瞑想実践者は、幸福や平安、世俗的ないしは霊的成功といった個の利益を求めて瞑想を行うが、これは人間の認知バイアスに根ざした誤謬である。
心理学が言う「脱自己中心化(decentering)」の概念は、自己を個別の主体としてではなく、より広い認識の文脈の中で捉えることを意味するが、瞑想の本質も、より高い段階における自己の脱中心化にある。しかし、個人の報酬という枠組みで瞑想を捉えることは、認知科学的に見ても甚だ逆説的である。個人としての幸福を求めることで、かえって個人意識を強化し、意識の変容を阻害してしまうのだ。
瞑想は人体の知られざる器官を眠りから醒ます
神経科学は、瞑想による意識の変容が脳の神経可塑性(neuroplasticity)と密接に関連していることを指摘している。例えば瞑想は、デフォルトモードネットワーク(DMN)を抑制し、自己参照的な思考の減少をもたらすこと、さらには前頭前野の活動を変化させ、感情の自己調整能力を向上させると主張する。それは、百年前にジュワル・クール覚者が「瞑想はメンタル体とアストラル体を安定化させる作用を持つ」と言った内容の一側面と一致する。
高位のセンターや器官の対応物である脳下垂体や松果体についての知見は未だ初期段階にあるが、瞑想を通してあらゆる対応物――脳やエーテル組織の眠っていた機能がそれ自体を始動させはじめるとき、個人の意識は、新たに認識されることになる魂の意識に取って代わられることになる。このとき、個人的な報酬という発想自体が存在できないのは自明である。ここを理解するならば、多くの瞑想者の焦点が別のところにあり、現在当てられている焦点の箇所に興味を失うであろう。それこそが要点である。
瞑想と倫理
あるいは倫理学的観点に立つならば、例えば功利主義は、結果としての幸福や利益の増大を重視するが、瞑想は意識そのものの構造を変容させるものであり、結果を目的とはしない。瞑想は原因の世界に関与するものである。この点で、瞑想は功利主義と異なる原理に基づいている。
しかし、規則功利主義の観点から見ると、ある行為が持続的に最大幸福を生むならば、それを推奨するべきだと考える。したがって、瞑想が結果的に意識の安定や精神的成熟をもたらし、それによって社会的に有益な行動が増えるならば、規則功利主義は瞑想を肯定することになる。そのため、瞑想は直接的な結果の最大化を目的とするものではないが、意識の本質的変革を通じて結果に影響を及ぼしうるという点で、功利主義とは異なるが完全に対立するわけではない。
しかし、瞑想が導くのはあらゆる現象つまり結果の背後の原因――マインドと同一化する個人の意識の消失であり、幸福の増大などの現象的結果は目的ではなく内的必然とされる。つまり、瞑想は幸福の増大を目的としないが(なぜなら幸福は個人の目標であるから)、個人の意識構造の変化に伴い、結果として現象的な「良い」影響が生じる点で、功利主義と瞑想の本質は根本的に異なっている。
認識論的転換としての瞑想
瞑想とは、マインドが魂に同調し、個人という錯覚した意識を識閾下に追いやる過程である。ちょうど夜空に輝く星が太陽の光の前で見えなくなるように、この過程は認識論的な決定的転換を意味する。
しかし、ここで「消滅」と「統合」の違いを明確にする必要がある。瞑想は単なる自己の消滅ではなく、より高次のエネルギーとの統合である。これは、仏教における無我(anatta)の概念とも通じるが、完全な消滅ではなく、固定的な自己概念からの解放である。あるいは実存主義において「自己の解体を通じた新たな意味の創造」の概念にも通じるように見えるかもしれないが、秘教的な瞑想の目的は「個人を超えた純粋な意識との一体化」にある。それとても、第三イニシエーションまでの話である。
結論
瞑想の究極的な目的は、個人的な報酬の獲得ではなく、錯覚と無知の克服にある。その結果としての意識拡大であり、唯一なる名づけえぬ「それ」の啓示と「一体化」である。
このプロセスは、単なる個人の放棄ではなく、高位の存在――意志・愛・知性という神性の三位として顕現する生命そのものへと帰還する過程である。したがって、瞑想によって個人的な不幸や悲運や惨事がなくなることはない。それらの出来事は起こり続けるが、出来事に対する個人的な反応がなくなるのである。ラマナ・マハルシ的に言えば、「プラーラブダ・カルマは悟りの有無にかかわらず現象としては続くが、それによって苦しむかどうかは自己の同一化の問題」ということになる。初期の段階では個人的な反応つまり同一化が残るものの、魂の意識を達成した瞑想者は、低い振動率の波動が自身に影響を及ぼさなくなることを発見する。
ここで、フォースとエネルギーの違いが明確となる。自身が純粋であり、ゆえに純粋なエネルギーの媒体であり、それと一体化しているかぎり、意識は「純粋意識」であり、世界や出来事は、その根源的領域においては埒外となるのである。