瞑想の危険について

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二人の金持ち

大金持ちになった者が二人いる。

一人は、そのお金をすべて自分のために使った。彼は自分のところへ流れてきたお金を、自分の努力の結果であり、自分が所有すべきお金であるとみなした。そこで彼はお金を使うことで自分の望みを次から次に叶えようとした。最初は満足感が得られた。やがて小さな欲望では満たされなくなり、より大きな欲望へと駆られるようになる。しかし、満たしても満たしても、結局は満たされず、新しい別の欲望が生まれるだけだった。彼は自らの富と才覚をすべて自らの目的に費やした。結果、満たされぬ不満が極限まで達し、激しく苦しむようになった。彼は散財し、破産した。すべてが失われたという思いに打ちひしがれて、惨めな現実に気が狂れて、自殺せねばならなかったのである。

もう一人は、自らに流れ来る富を、すべて他人のために費やした。苦しむ兄弟がいると、苦しみをなくすために彼はお金を使った。悲しむ姉妹がいると、彼は悲しみを癒やすためにお金を活用した。一人も貧しくひもじい思いをしないように、彼めがけて流れくる富を、彼は全力で皆のために使用した。一円たりとも、彼は自分のお金であると見なさなかった。すべての富にはその使命があり、その使命を忠実に再現するためにのみ、自分は富の中継体として存在しているのだと考え、徹底して謙虚だった。したがって彼は死ぬまで、一円も自分のためには使わなかったのである。自らを通して富が、富そのものの目的に適った使われ方をされることに、ただただ感謝し、兄弟姉妹の暗黒が光に変わることだけを喜びとして生ききった。彼は、自身の富を喜ぶのではなく、富が正しく使われることに喜びを見出し、その正しさに徹底して命を捧げたのである。

どちらが救われたかは言うまでもない。

法則が神である

高位のエネルギーの伝導体となっている者のうち、半分は錯覚をし、その流入の結果としての超人的な能力に溺れ、天の富を自分の富とみなし、自分の進歩のために高位のエネルギーを使用し、積年の努力の賜物として、自分のためだけに高位の力は所有されて然るべきであると信じている。その結果、エネルギーの流入と流出にひずみが生じ、正しく流出できないがために苦しむようになり、多くの瞑想者がこれまで発狂したり、錯乱したりして、自分だけでは抱えきれないエネルギーの犠牲になってきた。すべては無知ゆえにこのようなことが起きる。

自分の発達のために瞑想をしている初心者は、やがて悲劇が自らに起きぬよう、早めに考え方を修正すべきである。自分のために瞑想してはならない。そのような目的で我々は瞑想させてもらっているのではない。我々は、全員で一つの働きをするのであり、個人は唯一なる目的のための部分でしかない。宗教的な者は「神の目的」と言うが、ならばそれだけが重要であることを知り、自分の進歩といった個人的な目的などは目的ではないことを知るべきである。さもなければ、行き着くところは悲劇である。エネルギーは意志であり、その意志は、法則に沿ってのみ安全に機能しうることを知り、流入するものを、いかに誤用なく、また誤解釈なしに流出させうるか、その手腕を磨くため、つまり神の仕事をうまくこなすためにのみ、自分は諸体を磨き、瞑想しているのだということを常に知っておくべきである。

現代科学ですら、エネルギーの語源は「仕事」であり、エネルギーを「物体内部に蓄えられた仕事をする能力」と言っているではないだろうか。瞑想者は、エネルギーを直接扱う者である。自身つまり諸体の波動を高めるにつれ、頭部のセンターつまりチャクラを通し、我々は様々なエネルギーの通路となる。正しい教えを知らない者は、そのエネルギーが自分の発達のために流れてきたと錯覚している。したがって一なる生命における正しい循環が分からず、自身の内部に高位のエネルギーを溜め込むようになる。つまりエネルギーは正しい出口を見つけられずに、彼という形態内部で腐り果て、彼の人体や意識に破壊をもたらすようになるのである。

波動の苦痛に耐えられない人へ

高位の波動が苦しいという意見をしばしば聞くが、それは基本的に以下の理由である。

  • 抵抗による苦痛。つまり自身を構成する諸体のフォースと、高位のエネルギーが衝突している。彼は受け入れ方、受け止め方、融合の仕方を学ぶ必要がある。
  • 所有による苦痛。つまり彼は自分のために高位の波動が流れているとでも思っている。考え方がそもそも分離していることを知る必要がある。彼は自分を過大評価しすぎている。

アリス・ベイリーに本を書かせたジュワル・クール覚者が、奉仕をとかく重視したのは、エネルギーの正しい流出を個人に印象づける単語が奉仕だったからである。奉仕とは、個人による他の個人への奉仕ではなく、すべての一体性に基づき、エネルギーに固有の意志が正しく顕現するために法則つまり神に協力することにほかならない。この理解を通して、個人は神と一体化するのであり、自分が発達したいから神と合一するのではない。これを理解するとき、同一化からの自由で述べた「外周から中心」という意味の正当性、それがいかに理にかなったものであるかを認識するはずである。つまり、正しく自身にその意味を適用するようになるはずである。外から内である。こうして瞑想の危険はなくなる。

瞑想は、それが進展すればするほど、間違った動機で行う者に災いをもたらす恐れがあるため、本来は正しい教師のもとで、その許可のもとに厳格に行われるべきであるが、なにしろ正しい教師がまずいないため、我々は独学を強いられるのが普通であり、正しい心を通してサッドグルである魂に教わるのが普通である。したがって、少しでも自身によこしまな動機がないよう、自身で厳しく管理するしかないのである。瞑想に救われる者は多いが、それゆえ瞑想に溺れ、瞑想が持つ本来の目的を見失う者も多い。気が狂ってからでは手遅れである。何のために瞑想に身も心も捧げてきたのか分からない。自分のために瞑想してはならない。正しい動機を徹底して見つめ直し、入ってきた高位のエネルギーは、正しい目的のために使われねばならないことを常に知り、瞑想が危険ではなく愛と美をもたらすものであることを祈るばかりである。

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