瞑想の危険回避

短い質問であるためそのまま掲載する。

  1. 瞑想の際に、マインドと脳の瞑想という危険な状態を回避するためにはどうしたらいいのでしょうか。
  2. また、瞑想では感情などに集中しているのとボーッと眺めているようなあり方、どちらがいいのでしょうか。

これはおそらく、ジュワル・クールの言葉の引用に関するものだろう。それは以下である。

瞑想するのは魂である。瞑想は積極的な活動であり、消極的な状態ではない。瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとする。しかしながら、真の瞑想は魂とマインドに関するものである。脳の受動性はより高位の状態に対する自動的な反応である。したがって、ラージャ・ヨガにおいては、魂との接触、そして「思考原理の変異を静める能力」が、あらゆる脳の活動や反応よりも先に起こらねばならないのである。

アリス・ベイリー「魂の光」p.402

1の質問に答えるなら、何もしないことである。これは答えだが、答えにならないであろう。何もしないのは”魂と協力する個人”である。したがって、魂を見い出す前は、誰もがマインドと脳で瞑想しようと試みている。頑張って「脳細胞を静めようと努め」ないことが重要である。世間一般の教えとは異なるかもしれない。しばしば、雑念を静めることが瞑想だと思われている。それはそうかもしれないが、静めるのは魂である。このことが世間では理解されていない。静まっていないのは個人である。つまり個人が雑念である。どうして個人が自身である雑念を静めることができるであろうか。これを理解し、魂の意志と力に服従し、整列し、個人は何もしないが、魂と波動的に積極的に一致協力して、ただ共に在ることが瞑想における当面の目標である。

魂を見い出す前の、マインドと脳で静かにしていようと試みる瞑想である場合、瞑想が成功しているかどうかの基準は、主に心地良さの感覚である。逆に間違っている場合、確実に苦痛を伴うことも覚えておいたほうがいいだろう。瞑想したことで頭痛に悩まされるようになりました、と言う人は多いが、それは苦痛という警告にも関わらず、間違った集中などをやり続けた結果であり、悪い場合は発狂などを引き起こすことすらある。滅多に起こらないのは、発狂するまで間違いをやり続けられるだけの意志力がある人がほとんど存在しないからである。

しかし考えてもらいたい。普通の人ですら、よっぽど波動が乱れていないかぎり、うるささよりも、静かであることを好む。パチンコ屋に行くよりも、静かな図書館で本を読んだり、あるいは祭りの騒々しさよりも、誰もいない大自然に一人身を置くことを好むような者は、瞑想に向いている。彼らは、静かであることが好きである。そして、静かであることが決して努力ではないことを知っている。静けさは、ただ存在の状態である。ならば、我々は今すでに静かではないのか。静けさを楽しむことができるのではないのか。静けさを壊すのは、動機という騒音に踊らされている無知な個人のみである。

瞑想は存在の状態である。何かを見い出したいから瞑想するのは魂ではなく個人である。目的という幻想から瞑想するのはマインドの欲深さからである。我々は、うるさいよりも、静かな方が好きである。「ここは静かで落ち着く」と人は言う。静かなことが心地よいことを我々は知っているではないだろうか。ここさえ理解するならば、個人は間違ったことをしなくなる。何もせずとも、我々は静かで在ることが好きで心地よく、その静かな状態は、決して努力して得たものではなく、我々の背後の”もの言わぬ中心”そのものに波動的に正しく感応したがゆえに、静謐に喜ぶことができるのである。これは、突き詰めて言えば、我々自身が、もとより静かな存在であるということである。にも関わらず、「静かにしよう」とする者とは、何ゆえなのであろうか。瞑想中に雑念や騒音があるならば、そうあらしめればいい。これが無抵抗であり、真の非暴力である。この態度が最終的には観照と呼ばれる意識状態へと導く。気づいているだけで、一切抵抗をせず、介入せず、存在しているだけである。それは世界に対する神のような態度である。


「また、瞑想では感情などに集中しているのとボーッと眺めているようなあり方、どちらがいいのでしょうか」。感情に集中するとはどういう意味だろうか。もし個人が感情に集中するならば、その何らかの意図のせいで、より感情は増幅され、手に負えなくなるだろう。エネルギーとフォースを識別できるようになったあと、感情であれどのようなフォースであれ、その者の意識段階に応じていかようにもすることは可能になる。よく負の感情などに飲み込まれがちな自分が嫌で瞑想を始める人がいるが、やがて負の感情などありえなくなるだろう。たとえ表面的に浮き上がってきたとしても、我々に何の関係があるだろうか、と言えるぐらい、無関係な存在になるだろう。このようになるまでは、感情に対してどうこうしようとしてはならない。かといって、それは「ボーッと眺めているようなあり方」なのであろうか。

何かを認識するとき、我々はボーッとしているだろうか。気づいていることは、ボーッとしながら可能だろうか。ただ気づくこと、ただ見ていること、これはボーッとしている状態ではなく、むしろ鋭敏な意識状態である。女性に多いが、受け身になりがちな方を見かけることがある。意識的でなく自らを誤ったかたちで空っぽにする場合、その者の波動的な在り方に応じて、憑依の危険もありうる。怖がる必要は全くないが、意識を放棄しようとする態度が間違いであることは覚えておくべきである。多少ボーッとしようが危険が起こらぬようにすることは可能である。つまり、人間として正しい生き方、人格的な在り方を達成しているならば、波動的に、低き者たちは近寄ることすら不可能である。似た波動の者に、肉体を去った後の悪しき存在たちは引き寄せられるものである。誰かを恨んでいたり、殺したいとか、破滅させてやりたいとか、激しい負の情緒に憑かれているような者は、自動的にそのような存在たちを引き寄せることになる。反対に、静かで善良な生き方をしている者、「君子、危うきに近寄らず」の意味を知り、良くない波動とは一切関わらず、正しく良い波動で生きることの美しさ喜ばしさを知るような者には、悪意ある存在ではなく、逆に聖者方のような高き存在の目を引くようにさえなり、非常に感謝に満ち満ちるばかりに良い方向へと常に導かれるようになるだろう。これは事実である。この逆の憑依を受けるとき、オーバーシャドーと言うのである。弟子の場合、彼の大師からこの種の恩寵を瞑想中に受けることがありうる。注意する必要はあるが、高位の存在であることが確認された場合、その一体化された高き波動を受け入れることで偉大な意識拡大へと導かれるだろう。

だから、本来瞑想とは、一定の性格構築を達成した者のみに許されるべきものであり、悪意の波動に生きるような状態の者が瞑想するような場合には、監督する師が必要であるが、真の高等な師である場合、未熟な者には決して瞑想させない。それは危険だからである。もちろん、完璧は無理であり、それに程遠いからこそ瞑想を始めるのであろうが、その場合おのれを危険から守るのは、おのれの正しさという、その一点である。何があっても正しく生きよう、私欲を捨て、ただ苦しむ兄弟姉妹のために尽くし生きよう、自分のことはもう諦めて、真に偉大な方々に一歩でも近づけるよう、日々を疎かにせず、おのれを磨いて磨いて磨き抜こうという、正しさや善にひれ伏した生き方を目指せるような者であれば、危険があるどころか、霊的に善きことにしか導かれなくなり、神のみに仕えよと聖人が言った理由を完璧に理解するであろう。

質問者は、瞑想を初めて長くなく、何が正しい瞑想で、何が間違った危険な瞑想なのかを知っておきたいのだと思う。だいたいのことは答えたが、真に答えを教える者は、魂である。それまでは、正しい本を読み、学習し、私の経験上からも言えることだが、一回あたり40分を超えるような瞑想はよくない。せいぜい50分だが、40分を勧める。ジュワル・クールが、「初心者は15分から始め、決して40分は超えないように」と書いているのを読んだとき、その通りだと思ったものである。脳細胞や諸体に与える影響が、それ以上になると初期段階では悪影響になる。私は四種類の本しか基本的に読まなかった。順番で言うと、クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、アリス・ベイリー、これだけである。バランスの取れた学習教材であったと未だに思う。学習と瞑想をし、次に重要なのは、自分に厳しくしすぎないことであり、程よく遊ぶことである。あまり感情的ではない娯楽で、古い波動に適度に戻しつつ、無理なく、螺旋状に進歩していく流れのリズムを活用することである。すると危険も減る。努力からではなく、好きだから瞑想し、好きだから聖人の本を読むようになる。こうするうちに、確実に魂の波動が眉のあたりまで上から降りてくるようになるだろう。魂の波動と接触が始まったならば、そのようなレベルの諸体にまで磨きあげたということであり、正しい道を歩んでいることを確認し、真の正しい道は、その後は魂の道であることを知り、もっとおのれに魂を引き込めるよう、諸体を高位我の波動によって精製し調整し、日中も定期的に1分でもいいから目をつむり乱れた気を乱れる前の気に合わせ、波動や在り方を頻繁に魂に整えるという基本的真髄を習得していかねばならない。すると、徐々に魂の意識に入れるようになる。その頃には、672夜など読む必要はなくなり、あらゆる分離は次々に消え去り、全てが一体であることを完全に理解するだろう。形態に惑わされず、あるいは感情に惑わされず、その背後のものを直に見ることが可能になり、それはすべて我である。我の中に、我として調和するようになるだろう。

瞑想の鍵は、まさに自然体である。

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