瞑想の条件
われわれは、真理の探究と言うが、そのじつ、求めているのは安楽や個人的な利益であり、霊的な現象を絶えず求めることでしばしば時間を浪費する。この不誠実は瞑想において深刻な障害を築く。こうした自我の情動が騒音となり、真我の感覚を妨げるのである。自らの欲求や観念の犠牲者となり、進歩がないことに苦しむようになる。師を渡り歩き、精神の穴を埋めてくれる教えを探し回り、霊的なビジネスマンを覚者と思い、被害に遭うことは決して珍しくはない。
精神とはこのようなものである。自分に隠れて自分に嘘をつくのが自我の責務である。自我の武器は情緒や欲求、そして思考である。したがって、瞑想の条件として、清い心、欲深くない精神、霊性を逃避に利用しない賢さ、自身の段階を謙虚に見ることのできるバランス感覚などが求められている。
意識へ帰る
初めのころ、次のような訓練に有効性を見出した。コメントでも紹介したように、意識に戻すというものである。われわれは瞑想するが、気づけば空想していることが多い。しかし空想していたことに気づくことが偉い。そこで、ふたたび意識に戻すのである。そして、「戻った」と心の中で確認する。二秒、三秒と意識の中へとどまっているならば、「戻っている」ことを確認する。しかしすぐに想念に連れ去られるだろう。また失敗したか、などと思う必要はなく、ふたたび意識へ戻る。この繰り返しである。これらは眉間のアジュナ・センターで行われる必要がある。
一時間の瞑想で、数回、「戻った」と言えるならば上等である。そのうち、戻る感覚が短くなり、また長くなり、そしてより短くなり……戻るたび、意識が純化されゆくことに気づき始めるだろう。やがて、ハートで「存在」の感覚が強まり出すかもしれない。喜びや静かな至福とともに、どこへ行く必要もなかったことが知られるかもしれない。思考や「思考原理の変異」は自動的に統御されるようになり、自然の集中が訪れる。「存在」に安らぐのである。思考はなくなり、意識は塗り替えられる。もう、意識へ帰る作業は必要ない。努力ができなくなっているだろう。なぜなら、魂がマインドを支配したからである。こうして、魂と諸体(メンタル体-アストラル体-肉体)が整列したならば、「存在」の感覚を頼りに、より遥かなるもの、魂として実在への瞑想が可能になる。
何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものである。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスである魂の中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在―時間と空間とそれに含まれる全てのものがなくなったときにでも決してなくなることのない存在―についての内的な認識に基づく至福である。低位界層のあらゆるイリュージョンを経験し、それを経験し終え、それを変性し、超越したとき、人はこの存在を知る。人が努力を行う小さな世界が消え去って、無に帰したように見えたときでも、それはなおも生き続ける。それは「私はそれである(I AM THAT)」という知識に根ざしている。
アリス・ベイリー 「イニシエーション」 p.113
安全な瞑想のために
今はこのような訓練に否定的である。いかなる訓練にも賛同できない。訓練は精神の領域における自我の抵抗であり、真我つまり存在と関係がなく、ただ見られるべきである。力を与えないのが一番良い。しかし、最初からそのように言えるわけではないこともおそらく事実なのである。したがって、脳とマインドを識別できず、また思考と同一化しており、メンタル・フォースを見ることができない段階では、このような訓練を採用することになるかもしれないが、最初のうちだけである。アストラル体の統御が十分であること、魂エネルギーの伝導体であり、魂そのものと接触ができていること、これらの基本に忠実であるならば、どれだけマインドの統御が不可能に思えても、やがて静かになる。
魂と接触できないのは、第一にアストラル性質が統御されていないためである。想念の統御の前に、情緒性質の統御が必須であることがあまり知られていないようである。希望さえもアストラル的な利己主義として、徐々に放棄しゆくべきである。それは自我のものでしかない。
最後に、自我と脳ではなく、魂とマインドで瞑想するかぎり、一切の努力がないことを強調したい。この場合、脳細胞を損傷させたり、頭痛に見舞われたりすることはない。何らかの苦痛や無理を感じるならば、それは脳を不当に酷使しているのであり、早めに瞑想を中止すべきである。マインドと脳の違いを識別し、魂として瞑想は行われるべきである。それにより、安全と危険の境界を明確に識別できるようになるだろう。
瞑想の名の元に行われている活動の多くは危険で無益なものである。なぜなら、統御しようとしているのが物質界の人間であり、彼の努力は脳を静めることに集中しているからである。彼は脳細胞を静めようと努め、それを消極的で無活動な状態にしようとする。しかしながら、真の瞑想は魂とマインドに関するものである。脳の受動性はより高位の状態に対する自動的な反応である。したがって、…魂との接触、そして「思考原理の変異を静める能力」が、あらゆる脳の活動や反応よりも先に起こらねばならないのである。
アリス・ベイリー「魂の光」 p.402
ニサルガダッタ・マハラジの言葉から
先日、引用のために買ったニサルガダッタ・マハラジに関する本の中で、本質的に同じ訓練法の記載があった。参考までに、以下へ記しておく。
マハラジによれば、意識していることをまさに意識することが、すでに絶対に向かう運動であるということです。マインドはそのまさに性質によって、外向きで、物事の源泉を物事それ自身に求める傾向があります。マインドが内なる源泉に向けられるとき、それはほとんど新しい生活の始まりのようなものです。絶対が意識に取って替わるのです。意識の中の一つの思考である「私は在る」が停止します。気づきの中においてはどんな思考もありません。気づきは意識の源泉です。マハラジは、「静かに座って、マインドの表面に何が来るかを眺めているのは、素晴らしい霊的練習である」と私たちに提案します。
「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」p.43 ラメッシ・バルセカール