瞑想は努力でも人格磨きでもない
あまりにも熱心に、精力的に、猛烈に、霊的な生活に励まないようにしなさい。霊的な生活とは存在の状態であって、達成の状態ではない。それは、正しい方向を向き、そちらに方向づけられている状態であって、ある基準に達しようという苦痛に満ちた劇的な努力ではない。……我が兄弟よ。どうして自分自身についてそれほど考えるのですか。「悪い自分だけでなく、善い自分も排除して、キリストだけが見られ聞かれるようにしよう」という言葉を自分自身に対して引用したことはないのですか。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道5」 p.450
多くの探求者がこの段階にある。つまり――あまりにも熱心に、精力的に、猛烈に、霊的な生活に励んでいる。それは、「ある基準に達しようという苦痛に満ちた劇的な努力」である。われわれが見出そうとしているものが、こういう努力とは全く関係なく存在していることを理解してほしい。いくらかの人々はこれを信じられないかもしれない。努力し、自身つまり人格を磨き、善い自分になることで「キリスト」つまり魂が見出されると思っている。しかし、「悪い自分だけでなく、善い自分も排除」しなければ、個人の背後のものは見出しえないのである。
前にも同じような引用があった。それは以下である。
多くの秘教徒は、道を辿るということは、低位性質を克服し、正しい生活と思考、愛と知的な理解という観点から生命を表現しようと意識的に努力することと考えているようである。それはそうであるが、それ以上のものである。善良な性格と善良な霊的熱誠は基本的な不可欠要素である。しかし……それらの基礎と、それらを認識して発達させることは見習いの道での目標である。
アリス・ベイリー「光線とイニシエーション下」p.63
人格の鍛錬は「見習いの道」に属する。魂へと至るための本質的な道ではない。それゆえ、私は見習いの道について語るつもりはない。それは魂の認識において障害となるからである。「どうして自分自身についてそれほど考えるのですか」という問いが示唆するように、自我に集中することが障害となるのだ。
上の段階へ進もうとする者は、この話を深く理解しなければならない。初心者は、「自分磨き」に没頭し、それに満足するか、あるいは「自分磨きが終わらないこと」に絶望する。しかし、この絶望を経た者だけが、次の段階に進むことができる。
われわれは「それ以上の」話をしているのである。
では、どうしたらいいのか?
このような「個人的な問い」が障害であることを、本当に理解することができるだろうか。個人とは、良い人でも悪い人でも、ただ「うるさい人」である。個人は、永久に何らかの疑問に生き、その解決を探し求めることで、自身という心を維持しようとする。つまり、探求という名の元で行われる心の自作自演である。心は、心を強化することしかできないことを、見習いの弟子は理論上でしか理解していない。ここを突破するには、瞑想により、心という偽物ではなく、魂という本物が訪れる必要がある。
上の動画でニサルガダッタ・マハラジは次のように述べている。「瞑想の究極的な目的は、生の源である意識にたどり着くことだ。付随的にだが、瞑想の修行は私たちの人格に深く影響を及ぼす」と。この意識が魂である。だから呼称はどうでもいいが、ここで重要なのは、「人格への影響が付随的なもの」としている点である。初心者は逆に考えている。正しい人格が”純粋意識”に導くであろうと。しかし、人格の良い者は世の中にたくさん存在する。霊的な水準の人格に到達すべく「愛そう」「許そう」「理解しよう」と試みている人は世界中にいる。それでも、人格の向上によって魂の意識に到達することがないことを、彼らは証明し続けている。この話を事実だと思いますか。
個人には何もできないのか?
答えは、「個人が何もできないことに気づくこと」だ。そして、その気づきの後に、個人は何をすればよいのか? もちろん、何もしてはならない。しかし、何かをしようとするだろう。何らかの想念が起きたり、その想念に従って情緒が発現したりするだろう。このような動きに眉間からただ気づくだけでいい。
それは、気づこうとすることではない。酔っ払いの喧嘩を人々が遠くから眺めるように、心が生じさせるどのような対立にも関わってはならない。遠くから傍観し、自分が巻き込まれないよう、ただ気づいているだけでいい。このようにして、心から心が離れる習慣が生まれ、心を超えたものが知られるようになる。
もし、想念が現れ、「気づきに引き戻そう」とするならば、これはもう心の強化になる。修練にして努力になる。したがって、本当の意味では、「気づき」とは、魂の状態であって、心によるものではない。しかし、われわれはまだ個人にして心であり、その背後の魂を見つけ出していない。したがって、唯一有効なのは、あらゆるものが無効であると気づいたあとに残る、単なる気づき、つまり「見ること」なのである。しかし、心が存在するかぎり、それは本当の意味では本質的なものではない。
では、何が本質的なのか?
瞑想を四十分したとしよう。必ず、その途中で何回か、日頃の心よりも静かになるという体験をするだろう。そのとき、何が起きているのかを観察するといい。それは、瞑想中にわれわれが努力で静かにしたのではなく、別の力がわれわれを静かにしたことに気づくだろう。われわれが静けさの門をくぐるとき、魂という覚者はわれわれを迎えにくる。そして静けさのなかで、覚者はわれわれに働きかけるのである。この働きかけに対し、最初は肉体脳は反応できないかもしれない。やがて、明確な導く波動としてそれは認識され、そこでエネルギーとフォースの違いが知られるようになる。
これを本当に理解するならば、次のこともまた理解するだろう。この内なる力こそが本物由来のものであると。そして、この本物の力にすべてを委ねるだけでいいということを。それは受け身の状態ではなく、内からの働きかけに完全に気づいている状態であるが、自身における行為がそこには全くなく、冒頭の引用にもあったように、「存在の状態」であることが分かるだろう。この内なる存在に自らを合わせることが、瞑想の基本なのである。これは、努力とは真逆の静かな存在状態である。
瞑想の本質
簡単に言えば、長年の瞑想で静かになる。その静けさの積み重ねでしかない。しかし、努力による自我瞑想をする者は、静かにならないことを見出すだろう。ただ脳細胞を痛めつけて災難に見舞われるだけだろう。いつも言うように、彼らは心と脳で瞑想している。魂が心に働きかけること、これを心が知り、心と魂が一つになることで心そのものが超越されること、これが瞑想の本質である観照意識すなわち魂意識である。
よって、静けさを重視してもらいたい。それは、瞑想の途中に、静かになってきたことに気づくだけでいい。すると、自身が静かにさせられた客体であることに気づくだろう。その次は、何が静かにする力なのかを見ることである。この力の源であられるお方こそが、真我である。これが分かったならば、瞑想生活とは、彼として生きることになる。個人や心で生きることが苦痛になる。本物を知ったからには、偽物の奴隷であることには耐えられなくなるのである。
したがって、真の瞑想がいかに「他力的なもの」であるかが分かるであろう。初心者は、「自力」を信じている。熟練した者は、自分というものが実在ではないことを知り、ただ明け渡す。このとき、かつて努力を行っていた時期のことを懐かしくさえ思うだろう。それは、いかなるときも自分が世界の中心である生き方であった。もはやそのような視点や意識はなくなるのである。このとき、瞑想とは、「達成ではなく、存在の状態」であることが知られるだろう。そこには思考がなく、唯一なる存在が存在するだけであり、それゆえ至高の意識なのである。