- 「魂との接触」とは、具体的にどのような意味なのですか。魂という具体的な何か高位の存在に、瞑想中にはっきり意識で遭遇するということですか。
私が魂である。すべてが魂である。一箇の原子にすら魂がある。人間の魂がこれら、つまり全体にして一箇の魂(超魂とかオーバーソウルとか呼ばれるもの)へと吸収されるとき、その吸収する存在をマインドが認識し、私はそれである(I AM THAT)と言うのである。
- 私がお尋ねしたいのは、高位のメッセージを受け取ることがあるのかということです。先日、私は瞑想していましたが、何かしら声を聞きました。「目覚めなさい」とか「起きなさい」とか「あなたは受け入れられた」などの声を聞いた――それは決して人間が認識する周波数のいわゆる音ではないのですが、声として音として聞いたのです。これは魂からのものでしょうか。
違う。それはあなたの想念の産物であり、アストラル界に属するものである。かつて物質界で死んでアストラル界に渡った何らかの者に憑依を受けているだけなのに、それをチャネリングと称して「選ばれた私」に恍惚となっている迷った兄弟姉妹の書籍が本屋にはたくさん並んでいる。だから厳しく言うが、瞑想中にそのようなことは起こらない。それは魂との接触ではなく、アストラル瞑想の危険な誘惑でしかなく、憑依の前兆と捉え、無視し、恐れず、それが間違いであることを認め、正しく真我への道に引き戻す必要がある。真我瞑想は、分離させたり、誰か特定のパーソナリティーを強調したり、気分を良くさせたり悪くさせたり、”メッセージ”を個人間で送受信したりするようなものではない。瞑想は決して個人を扱わない。
- しかし、あなたの過去の文章に、魂と対話できることを示唆するものがありました。それは分離していませんか。あなたと魂が対話するのなら、それもまた憑依や錯覚ではないのですか。そうではないという証拠はあるのですか。
いわゆる死人は、肉体を持たないだけで、今なお活発に(通常は)アストラル界の第四亜界、つまり「彼岸」に居を構え活動している。私はヘッドから意識を抽出し、物質界に肉体を保持したまま、アストラル界へ意識で行き来できるため、一般の人よりはその界層や”住人”に精通している。アストラル界もアストラル体も実体ではないが、我々が物質界や肉体を本物であり自身であるとみなしているように、”死人”もまたその世界やそこでの意識や体を自分と見なしている。……
話を戻そう。一方で魂は、メンタル界の第三亜界に存在している。メンタル界の第四から第七亜界は、低位マインドの亜界であり、人間の個人意識を構成する範囲内である(七つの界層のパーソナリティーの範囲を参照)。この我々の意識を、一つ上の第三亜界にまで引き上げたとき、パーソナリティーは魂と接触し、魂を認識し、魂におとなしく従うようになる。どうやって引き上げるのか。普通は瞑想という手段を通し、肉体、アストラル体、低位メンタル体の波動を魂と同調させることによってである。それを行うのが個人である自分ではなく、魂であることに人が気づいたとき、すべての行為は止む。我々の自由意志は自由ではなかったことを知る。自身が魂であることを人は知る。ちょうど、川の流れの小さな部分だけが意志をもって逆流し始めるという物理現象が起きないように、流れの一部は全体の流れに属する。あとは身を委ねるだけである。人間の魂は、こうして無知から智恵へと至り、全体の魂に融合するのである。
この瞑想過程において、我々は魂と波動を一致させることで、知りたいこと、分からないことを尋ねる権利が与えられる。答えは瞬時に得られる。つまるところ、諸体、とりわけ低位マインドを統御している場合、我々は魂が活動するメンタル界の高位界層(第三亜界以上)と直通するようになり、考えるという作業をすることなく、瞬間的な対話が可能になるのである。これを秘教徒はイルミネーションと呼んでおり、まだ直観ではないが直観的なものであり、それは魂の光である。この光を人が活用できるようになったとき、アンターカラナの後半、つまりメンタル界の第三亜界から第二亜界へ、そして第一である原子亜界へと征服の歩みを進めることが可能になり、意識の間隙に橋を架ける(七つの界層図をよく見るとパーソナリティーと霊的トリアッドの間に間隙があるはずである)。ここまでが、そしてこれが、瞑想の役割である。したがって、このような過程にあって、個人が誰か別の個人(神を自称する個人はアストラル界に無数にいる)からメッセージを受けたりすることがないことは自明である。魂の声は沈黙の声であり、魂との対話は直観的なものである。そして魂は人格を持っていない。
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