- なぜ人は瞑想するのだろうか。
何か問題があるのだろう。何かを求め、また何かを恐れているのだろう。
- 瞑想で、そのような個人の問題は解決するのだろうか。
解決する。ただし、個人としては解決しない。彼は、自分が個人ではない存在として解決を見る。それは、「どのような問題とも関係がない」という感覚が発達することによってである。
- その感覚は誰の感覚なのか。
誰ではない。個人だった者が、個人を成立させていたものと関わらなくなることで、個人ではなくなるだけである。
- その「個人を成立させていたもの」とは何なのか。
個人が欲望に支配されているなら、個人を成立させているのはそのとき欲望である。彼は悟りたいのかもしれず、サマーディを体験したいのかもしれない。それらの欲望と関わらなくなることで、彼は自由な存在に帰る。
- どうやったら欲望と関わらなくなるのか。
質問自体が欲望を示唆している。個人はどうしても違う場所に何かを求める。個人は外に向かうことで存在を維持している。そして内の意味が分からない。その質問含め、個人の方向がすべて外である。内とは彼そのものである。
- だから「私は誰か」や「私は在る」などと問うべきなのか。
霊的な欲望のために人はそれらを利用する。「私は誰か」と唱えるから悟りをください、と言っているのである。したがって、ずっと外を見ていることになる。彼の問題はその強すぎる欲望である。人生が惨めなので、「霊的な世界」に助けを求めているにすぎない。彼は何をしても、欲望や恐れそのものである。
- 個人がその状態から脱する方法はないのか。
個人は個人であり続けたいため個人の意味を知ろうとしない。本能的に、自分が何なのかに興味をもってはいけないことを個人は知っている。だから外に理想を求める。この動きが止んだとき、個人の問題は消える。動きが個人なのである。したがって瞑想は、外へ向かう個人の動きを知悉することに他ならない。その理解は個人ならぬ者が教えることである。個人ならぬ者が瞑想により訪れ、個人に働きかけ、個人を静かにさせる。
- 個人ならぬ者とは誰なのか。
人々は様々な名前で彼を納得しようとしているが、それは個人が最終的に自分だと知る者である。
- どうすれば彼は訪れるのか。
あらゆる「どうすれば」が止むことによって。つまり個人が静かになることによって。個人は、一切の自己の動きを信じないことによって。精通したとき、彼として、様々な霊的技術が使えるようになる。それまで個人は純粋に騒音であり、ただ瞑想の静けさにのみ答えを見なければならない。やがて彼が騒音をかき消す。
- 釈然としない。答えが見えない。
誰でもその状態を経験する。自我ゆえの闇に絶句する。しかし自我は瞑想するより他にない。
- このまま瞑想を続けて希望は見えるのか。
希望を与えて喜ぶのが自我であることを認めることが希望である。個人は自我の終わりを求めつつ、自我を喜ばせたくて仕方がない。あなたは自我である。自我であるかぎりどうにもならない。自我で瞑想して何になるだろうか。自我は壊される側であることを理解しなければならない。自我で求めてはならない。自我はおのれの動きを無視し、ただ瞑想の静けさに座すのみである。瞑想中、自我は騒ぐ。関わらないでいい。
- 徹底的に自分を無視するといいのか。
その質問も欲望なのである。おそらく、欲望が強すぎて、何もかも見えないのだろう。だから、すぐに結果を求めるのである。静けさが成熟である。そのうるささが未熟さである。方法を求めることは欲望にしたがうことである。求めているものは錯覚であるゆえ決して見つからない。その無意味さを知って、求めることを止め、おのれの一切の動きと関係を持たないよう静かに在るべきである。やがて自我ならぬ存在と接触できるようになるだろう。彼のみがあなたを黙らせる。それまであなたは瞑想を妨害し続けるだろう。
- 私は欲望そのものであることを認めなければならない……。
それが瞑想の始まりである。少なくともあなたは自分を見ることを覚えた。絶えず関わらず、見続けるといい。やがて、何もする必要がなかったことを知るだろう。何もしないとき、ただ在るとき、喜びを見つけるだろう。最初は微かかもしれないが、その愛、その美、その幸福感が道の案内人である。ただそれで在るといい。その後のことは自然に起こるだろう。
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