瞑想論 -形態の破壊-

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前文

真の瞑想は知的なものである。理想や観念に漠然と向かうものではなく、また理論を梯子にする固定的な方式に縛られることもない。より啓明された自我、つまり高位亜界の物質を組み込んだ人間による瞑想は、そのときに同一化し閉じ込められている形態の認識と破壊を意識的に行うものである。これは、自我意識からすれば魂と共同で行う作業であるが、実際に知的であり実際に形態を粉砕するのは魂である。自我はみずからの意識を生み出す原因である形態を知覚認識し、アジュナ・センターから魂エネルギーつまりコーザル・フォースを方向づけ、形態対象に投射することで破壊する。これにより意識は瞑想中に次々と限定を打ち破り、やがて自我自体つまりマインド自体が静まり魂に服従するようになる。こうして自由に形態と形態を支配する質料から自身を抽出し、存在そのもののハートへと撤退させる。この過程が実際のところの瞑想である。

低位と高位の瞑想

瞑想の界層目標手法知的区分偏極主体動機
低位亜界理想・状態他人の教え知識情緒自我欲望
高位亜界形態の破壊内なる魂知恵知性霊的意志

低位亜界の形態に支配された状態の自我意識は、自分が何者かを知らない。彼は記憶の産物であり名と歴史を持っている。瞑想の理論と知識に精通してはいても、まだ意識内の事実にはなっていない。理由は低位の形態に支配されているためである。形態は欲望の結果である。例えば、悟りたい人は、悟りという観念を私的に思い描き、その自らつくり上げた想念形態に支配される。そして支配されている状態に気づくことはできない。同一化している限り、彼がその欲望形態なのである。正しい瞑想と正しい知識の実践により(それは第一にアストラル体の統御である)、やがて魂がこの状況を打破する。

高位亜界の形態、ここではメンタル界の第三亜界にある魂の器つまりコーザル体を認識できる自我意識は、自分がもはや三界の低位形態ではないことを意識内で知覚している。欲望から比較的自由であるため、欲望の結果である形態からも自由であり、形態を魂の位置から無執着に見ることができる。次のように言ってもよいだろう。

  1. アストラル体の統御の結果、神性の第二様相である知恵が自我に三界の束縛する形態を認識させる(二重性)。
  2. メンタル体の統御の結果、神性の第一様相である意志が形態を破壊する力を自我に対して行使する(一体化)。
  3. この二種類のエネルギーは、魂を通して低位人間に働きかける。

まとめ

以上から、正しい瞑想に欲望や結果に対する要求が関与しないことが理解されるだろう。瞑想者は欲望がどのようなものかを理解している。その純粋な帰結が欲望との距離つまり無関係である。欲望とは、内的に無知な自我が誤って外へエネルギーを向ける衝動的な行為である。人間は自身が惹きつけられる欲求にしたがい心象化し、質料に影響を与え、時間をかけて無意識に形態に生命を吹き込み、やがてその愛着ある自作の形態と同一化し支配される。これがカルマの素因となっている。自我にはこの過程に対する知性はなく、ただ欲望を作り続ける機械的な単位として苦楽を味わう。自我とは、物質界とアストラル界とメンタル界で自身が機能できる亜界の物質に支配された意識の総和であることを覚えておく必要がある。自我は霊性に気づいておらず、物質の影響を絶えず受けている。

自身が欲望であり、その欲望が見せる報酬の奴隷である場合、必然的に瞑想の結果は得られないことになる。そのような「結果」は彼が作り上げた個人的なものであることにまだ彼は気づかない。彼は実在ではなくただの欲望である。ただのアストラル体である。これを瞑想で内に見るまで欲望は続くだろう。

瞑想はこのような欲望の対極にある。誤って外へエネルギーを向けるのではなく、正しく内側にエネルギーを向けるのが瞑想である。教師方が「私」を強調するのはそのためである。このとき、高位のエネルギー(魂)が低位のフォース(自我)に働きかけ、人間を拘束する形態を破壊するのである。秘教徒つまりオカルティストは、これを意識的に見ながら行う。これが魂による自然の集中つまり知恵と意志の瞑想である。この二種類のエネルギーの媒介となっているのが魂と呼ばれる偉大なエネルギー・センターである。このような意味から、われわれは魂の波長と共振することを瞑想の最初の目標とするのである。やがて自我と魂における意識の主従は逆転し、愛と喜びをもって、形態つまり自分自身と思われてきたものを破壊することができるようになる。この古い形態の破壊によって人間は新生し、普遍的な愛の総和をアイデンティティーとするようになる。

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