弟子やイニシエート方にしか見えぬ世界も含めて、現象の世界では、「←」と「→」しかない。「←」にあくまでも従い生きるならば悪魔のような存在にもなりうるし、「→」の意味と意義を理解してそれにあくまで従い生きるならば神のようになることもできる。象徴的に、現象の世界で「→」を意識的かつ意図的に扱えるようになることが人間の目標であり、実際に人間意識を超越した存在方が従っているのがこの意志と力である。ここでは、「扱う」と「従う」は同義語である。「方向づける」と「方向づけられる」は同じ意味である。「推進すること」と「推進力」と「推進」は同じ意味である。すべての「←」を「→」に迎え入れることが救済であり、したがって「→」が救い主であり、救世主であり、ゆえに神とは意志と力である。
「気違いに刃物」と言うが、気つまりエネルギー自体は本来自由で純粋なものであるが、それが正しい意志になるためには、知的な愛に色づけられ、守られていなければならない。それを体現しているのが「→」だが、この現象の世界では、「→」に対抗する「←」が主流である。この「←」は知的ではなく無知であり、愛ではなく破壊である。それは善に対する悪である。「←」も「→」も、特定の源から発出されており、意図的に操作されており、特定の源の意志を体現しており、その意志が目指す働きを担っている。普通の人間たちが神と悪魔とおぼろげに言う対立概念の背景にある「←」と「→」、もしくはその源を理解することが、このような世界における人間の目標である。
瞑想は、「←」に対する「→」を、概念ではなくして人間に教えるためのものである。通常の人間は「←」に生きることで何が間違いで無益なものであるかを学んでいる。「←」に対する「→」が体現する美徳を概念で学ぼうとする試みが宗教や倫理や道徳であるが、実際には「→」という本質的意志を知らぬゆえ、起きていることと言えば、「←」に対する欲求を頭で抑え込もうという理知的な努力、つまりそのような個人的力の無力さの学習である。人間が「徳」を体現する存在になるためには、「徳」そのものになっていなければならず、自身の内部から「←」に対する反応を一掃し、もはや反応することがないゆえに、「→」そのものになっていなければならない。だが、倫理や道徳が行っているように、現在はまだ人間に知的な理解を強調させる段階にあり、欲求や情緒に対するその愚かしさを理性や知的納得から「それはいけない」と自らを「←」から「→」に修正しようとする試みが誠実さである時代である。しかし、若い魂にはそれでよくとも、瞑想に生きざるを得ないような魂たちが、いつまでも「これはいけない」とか「こうでなければならない」とか頭から働きかけようとしているようでは先が暗い。自らを条件づけている「←」という実際的な影響力を無効化してしまうような、恐るべき力である「→」を、まさに頭から自由になることによって見出さねばならぬ。
いま現在、人間は自身が条件づけられた存在であることすら理解していない。「自由意志」という感覚がそれを示している。分離した個人という感覚がそれを示している。だが事実は、「←」に条件づけられており、「←」に縛られていることを、人々は自由と勘違いしているのである。「←」の欲求を満たしてやることを幸福と感じており、「←」の追求が人生であり、「←」の相対的な豊かさが人間の世界では成功を意味している。それは物質的な豊かさである。このような事実は、人類においてはまだ知性が開花していないことを示している。
人類の中のごく一部だけが、「←」を理解しつつあり、自身つまり肉体存在が何らかの力の奴隷でしかなく、決して自由ではないことを確認しつつある。言い換えると、「←」の追求は幸福を意味しておらず、むしろ自己破滅的で悪魔的な道であることを認識しつつある。このような啓明そのものが、「←」に対する「→」の力への感応力を示しており、それだけ器を発達させてきたことを示している。こうして、彼らの目標は「←」ではなく「→」に従い生きるという、通常の人間とは逆行した生き方の実践と実証がこの現象の世界における実際的な目標になる。そのためには、「←」の力よりも「→」が強くなっていなければならず、「←」と「→」の調和がすでに実現されている意識から働けるようになっていなければならない。真我は、「←」と「→」のいずれをも超越している。もっと正確に言い換えよう。「→」に生きるとは、「←」と「→」を融合させ、真の力である「→」しか存在しなくなるがゆえ、「←」と「→」という錯覚が乗り越えられ、存在するのはすべて神であるという啓示の意識に導かれることを意味している。「←」と「→」は目に見える世界の背後の原因の世界だが、「←」と「→」の調和による超越は、存在の世界である。
人間は「←」の実現が成功と幸福だと思っている。物質的かつ現象的な豊かさである。信じられぬような話だが、人間にはこの世しか見えておらず、ゆえに、そのままこの世だけが本物であり現実だと信じ込んでおり、この世の相対的な豊かさ、つまり分離して、誰かよりも優れた豊かさを求めさせる悪魔的な力に条件づけられているが、それを自身の願望だと感じており、条件づけている力そのものが見られることは決してないのである。「←」を知らぬゆえ、「→」の啓示も訪れることはなく、ある段階まで道を歩むまでは、徹底して人間は無力、すなわち運命や「←」の犠牲者でしかなく、「→」による運命やカルマからの自由でも、人間や分離やイリュージョンからの解放でも決してない。これは地獄の描写であると同時に、天国への道を指し示すものである。
多くの人間がこの世的な知的さは達成している。つまり具体マインドは勉強などで鍛えている。しかし、アストラル界のフォースには無力であるため、鍛えた頭の知性は、アストラル的欲求を満たすための道具として使用されている。これがこの世の金持ちや権力者の段階である。彼らはこの世では我々よりも知的かもしれず、頭の回転がはやく、知識量も豊富で、実務的手腕に長ける部分があるかもしれないが、相当な誤解と錯覚に生きており、いくら資産家でも大変なカルマ的負債を抱えている。彼らの独占欲さえなければ、どの兄弟姉妹も物質的に苦しまずに済むのだが、彼らを条件づける「←」の力は悪魔的であり、兄弟姉妹の苦悩は他人事でしかない。「自分さえよければ構わない」と彼らは実際に言うことができる人たちである。
初期段階の弟子は、魂の意図のもと、しばしばこの世では不幸であり、しかもこの世しか知らぬゆえ、この世の華やかさや豊かさを持つ者に対する怒りや憎しみや嫉妬を大なり小なり抱えている。まさか、自分の方が幸運だということに気づいていないのである。第二段階のイニシエート以上であれば、基本的にはいくらこの世の金や富を与えられても無興味である。彼らは魂であるため、見た目上の世界の富はすでに関係のない代物であり、意識は分離した形態の世界の背後の一なる真我に大なり小なり退いているが、その段階にまだない時代は、自身が物質的世界で恵まれていない環境にしばしば置かれるゆえ、自らを惨めであると感じる傾向にある。実際は、霊的な学習に専念するためにそのような環境を魂が与えたという恩恵についにあずかる生涯が訪れたのだが、いくらかの者はそれを理解せず、自身が死ぬと分かっていながら、あの世に持って帰れぬ物を未だに追い求めている。持って帰れるものは、積んだ徳だけである。つまりコーザル体に組み込んだ「→」の傾向や性質の実証だけである。転生するのは魂であり、魂の器はいわゆるコーザル体であり、その内容物だけが富である。この世におけるその天の収穫物は、一般的な善行や徳の施しではなく、最終的には自己放棄による「→」との一致で満たされるものであるが、そのような意識においては、「→」は努力ではなく、自発的な喜びであり、またそれだけが至福である。
だから、一時的にこの世で惨めであるにしても、それは何ら悲観するものではなく、ありがたきことである。逆にこの世での権勢に酔った兄弟姉妹を、我が事のように共に悲しまねばならない。「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(ルカ14:11)」。まだ人類の知的な者には、この意味が分からないのである。知性は決して愛抜きではありえない。愛なき知性のなんと惨たらしきことか。頭の知性が魂の知恵に置き換わり、愛と知恵が合一し、人間が浄化された神性に耐えうる器になったとき初めて、「→」の啓示が訪れるだろう。その器を満たし、その器を動かすのは「→」になるだろう。こうして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい(マルコ10:43–44)」が意味するものを知的な愛ある意志が体現するであろう。そのとき、意識は一つなるいのちを理解するであろう。それを、我として理解するであろう。しかし、我々を方向づける矢印は、いまどこに向けられているのであろうか。つまり、それはなぜであろうか。これをありのままに見ることが「←」の理解の出発点である。
