知るとは、特定の解釈に対する所有行為という無知である。この所有が行われると、知ったものは知識となる。そして彼は知識に仕え、知識に動かされるようになる。これを我々は盲目と呼ぶ。人間が知るためには、彼の理解できる位置まで、元は純粋であったアイディアが歪められねばならない。彼という経験体を通過し、私的な解釈へと堕落させられねばならない。アイディアとは、ブラヴァツキーの言葉を借りるならば、「それ自身では存在できないが、形のない物質に姿と形態を与え、顕現の原因になる無形の存在である」。したがって、知るまでには次のステップダウンが存在する。

1純粋なアイディア。直観
2形態と質料をまとったアイディア。抽象的な青写真。高位マインド
3人間が扱う具体的な想念や思考。低位マインド

瞑想する者が最初に気づくのは、3の虚偽である。これはアストラル体が統御され、低位マインドが支配されつつあるとき、人がより高位のマインドに接触することで理解されるものである。すると、人はプラトンのようにイデアを強調するようになる。と同時に、高位の認識は低位の殺戮を至上命令とさせる。これは、低位との同一化に対し、人間に苦痛という感覚を伴わせるようにするものである。プラトンがイデアを認識したとき、彼は第二段階のイニシエートだった。換言すると、アストラル体を統御したため、メンタル体の鎮静化に多少なりとも成功し、イデアに気づかざるをえなかった。このようにして、低位マインドを魂の位置から統御することは人間における火急の要件になる。彼は低位が統御された状態を経験し、それが自然であることを認識する。この妨害のない状態、より限定のない新しい意識領域に彼は居住し続けたいと意志するようになり、このような魂の意志様相が、魂自身への集中を喜ばせるのである。その結果、彼は2すら限定と見なすようになり、1へと至る。

平均的な瞑想者は、3つまり低位マインドの絶えざる変異の結果である想念の暴走状態、このマインドの治安の悪さに限定と苦しみを覚えるために、意識的であるにせよ無意識的であるにせよ、魂と接触し、アストラル体の浄化に取り組んでいるところである。彼らが魂と接触するまで、瞑想は行為であり、理想への欲望であり、現在の否定にして架空への到達へと自身を強いる努力と渇望であり、この段階であらゆる瞑想の方法や修練が試され、師から師へと渡り歩き、書物の渉猟と知識の財物に愉悦を覚え、この自我瞑想ないしは欲望瞑想という過ちを多大な年月に渡り試行錯誤し、やがてこの長期的な失敗を通して学ぶ。彼は自身が欲望に動かされていただけであり、霊的な理想のために、目の前の現在を否定し、別の何かへ移行するために自身という檻の中で足掻き、自ら苦しみを作り出してきただけであることに気づく。この途方もない自作自演を魂として見たとき、彼はそれまでのものと関わらなくなる。行為は否定される。彼は行為するよりも、見ることのほうが重要であることに気づく。彼は既知のものから離れたため、その界層に秘められていた視力に到達するのである。その結果、彼は錯覚をありのままに見通すことが可能になり、それが彼を縛りつけることはなくなり自由になる。彼は一つの界層における聖人になる。

我々は雑念をなくそうと努力し、結果的に脳細胞に損傷を加える。ひどい場合は狂気に至り、健常者には戻れなくなる。初心者に長時間瞑想をさせてはいけない理由の一つはここにある。彼は脳とマインドを識別できず、瞑想が魂とマインドのものであることをまだ知らない。脳やマインドが静かになるのは、より高位の波動や力に対する受動的かつ自動的な反応にすぎない。そのような集中力は、努力という利己主義から自由なときにのみ訪れうるものである。このとき、集中は喜び以外のなにものでもない。それは自我においては受動的だが、魂においては自発的なものである。

瞑想は、近い将来において、より商業的つまりアストラル的に堕落し、魂ではなく個人という物質へと向かわせ個人の利益を生み出す新しい先進的な娯楽としてより広く大衆に喧伝周知され、多くの意味で犠牲者を生み出すだろう。魂から遠ざかるものになるだろう。宗教がそうなってきたように、瞑想もまた悪が一時的に支配するだろう。大衆を魅了する瞑想のリーダーが次々と台頭し、人の欲望と恐怖をうまく使い分け、若い魂たち、つまり弱者を搾取し、弱者を意のままに操るための洗脳の手段の一つにするだろう。良いものは、常に悪に利用されてきた。今もあらゆる良いアイディアが意図的に堕落させられ、狂った集団の想念として人々をその強大な想念の形態に閉じ込めている。このような形態の破壊は、正しい瞑想者たちにかかっている。善が支配しなければならない。自我の強調ではなく、全我つまり魂の強調がわれわれを善へと導くことが知られねばならない。内なるリーダーが知られねばならない。このような職務を遂行する一員であるために、純粋な経路であるために、我々は今日も自分のためではない瞑想を学ぶものである。もし我々が自身の知識から自由になるならば、神の計画とか神の意志といった表現で伝えられる純粋なアイディアに到達するだろう。そして我々という道具は、この想像を絶するアイディアに仕えるために、喜んで自らを犠牲にするだろう。こうして、神の別名である犠牲を、喜びという文字に書き換えるだろう。

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