672夜様は「自分のために生命エネルギーは流れていない」の記事において、「あなたは伝導体になっていたはずである。」と指摘されます。私はこの伝導体の意味が具体的に何を指すのかよくわかりませんが、魂の波動を周りに放射するなどの善き意味をあらわしているならば、残念ながらそのような変化はございません。それどころか、この1年で顕著になったのですが、瞑想時においても、普段の日常においても、頭の上部にかけて何か強い圧を感じるようになり、ひどいときはドクドク脈打つような感じです。そのようなときは頭に何か詰まった感じで、意識も鈍重になります。この感じは表現上からすれば、何やら672夜様が表現される魂の波動の現象に似ていなくもないですが、おそらくは大きく異なるものと思われます。その理由としましては、私の眉間の疼きの感覚とは大きく異なるとともに、非常に不快で苦痛であるからです。眉間の疼きは頭部の圧に比べてより軽やかで鋭い感じがするのに比して、頭部の圧は鈍重で憂鬱な感じがします。このようにな現象が増えるにつれ、思索が継続できなくなったり、文章の読解が困難になったりしてきており、おそらくは脳の病気かもしれません。近いうちにMRIを撮る予定です。
頭蓋の内側で蠢くように感じられる魂の波動は、MRIや現代医学が捉えられるものではない。それは脳の病気ではなく、解放の兆候である。既知に属さぬものを恐れ、既知の枠組みで現象を把握したい気持ちは理解できるが、いま必要とされているのは、「非常に不快で苦痛である」その波動の方が実際は正しく真実であるという認識への転換である。この波動つまりリズムと一致しさえすれば、それは不快で苦痛なものではなくなり、以下のような意識へ到達させるものである。
何が起こったとしても内なる静けさをかき乱されない境地に達することは可能である。そこでは人知を超える平和を知り、それを経験する。なぜなら、意識はそのとき魂に集中しているからである。魂とは平和そのものであり、ブッディ生命の範囲にある。そこでは、本当の落ち着きを知り、かつ感じることができ、平衡が行き渡っている。なぜなら、生命の中心が、本質的にバランスであるエゴの中にあるからである。そこでは、穏やかさが支配しており、波だったり揺れ動いたりすることはない。なぜなら、聖なる知る者が支配の手綱を握っており、低位我からの妨害を許さないからである。そこでは至福そのものに到達するが、それは三界の状況に基づいたものではなく、非自己とは全く別の存在――時間と空間とそれに含まれる全てのものがなくなったときにでも決してなくなることのない存在――についての内的な認識に基づく至福である。
アリス・ベイリー「イニシエーション」p.113
「瞑想時においても、普段の日常においても、頭の上部にかけて何か強い圧を感じるようになり、ひどいときはドクドク脈打つような感じ」の波動は魂のエネルギーである。やがてもっと「ひどく」なるだろう。現在のあなたのすべての問題の核は、このエネルギーに抵抗していることで生じている。逆らうのではなく、受け入れなければならない。あなたという意識あるフォース体は、このエネルギーにおのれを明け渡さねばならない。彼が純粋な自己である。彼へと導くこの力が、ラマナの言う「列車」になる。この列車は脳の病気ではない。人間の意識を超えて、魂の新しい領域へと導く役割を果たす神の力である。平均的な人間はこのエネルギーを認識できない。とはいえ、これは高い段階を示すものではなく、一般の人類からすればかなり高い段階であるにすぎない。このエネルギーは、普通は見習いの初期段階に弟子の脳意識で知覚されるようになり、このエネルギーと、今まで自身を条件づけてきたフォースを一致させ、フォースをエネルギーに変性させ終え、この意味において融合を完了させる第三イニシエーションまで関与することになるエネルギーである。この列車が来たことは霊的には極めて祝福すべきことであるが、あなたはそれを理解できるか否かの瀬戸際に立たされている。これに関する別の引用を挙げる。
パーソナリティーのエネルギーは魂のエネルギーよりも一般の人の生活を条件づける上で遥かに強力である。魂のエネルギーは永劫にわたってその顕現点であるパーソナリティーを効力を持って掌握しようと試みてきたが、転生周期のかなり後半まではそうすることに失敗してきた。しかし、結局のところ、魂のエネルギーの効力は、パーソナリティーのエネルギーよりも果てしなく強力であるが、永劫とも言える長い年月の間、魂のエネルギーは三界において反応を示す諸体を欠いていた。
「秘教治療 下」p.241
魂からすれば、ようやく「反応を示す諸体」を手に入れたことになる。これは魂の計画に沿って物事が進展している証しである。にも関わらず、受け入れ方をまだ習得していないため、パーソナリティーのエネルギーに条件づけられたまま異物としてそれを認識し、抵抗しているため、「非常に不快で苦痛」になっており、「頭部の圧は鈍重で憂鬱」であり、「思索が継続できなくなったり、文章の読解が困難になったり」という錯乱ぎみな兆候が見られている。どの医者や気功専門家や霊能力者を頼っても助けてはくれないし、彼らは自身の権威を維持するために、自身の知識の範囲における枠組みに「症状」を当てはめようとするだけだろう。私はその道を辿った経験があるため、どのような状況であるか、また心境であるか、そして苦悩の暗夜であるかも理解できるが、そのまま自我を本物として魂を拒絶するか、それとも魂を受け入れる道に転換できるかで、残りの生涯をどのような意識で生きるかが決定されるだろう。この受け入れに失敗した場合、つまりその死すべき自分に固執し続けた場合、魂のエネルギーとあなたというフォースの集合体は整合性がとれないため、精神の病いに冒される可能性がある。魂は人間の精神を超えているが、それを拒絶する場合、精神の中で迷い、精神の暗い森を恐怖の中で逃避することになり、行き着く先は絶望になるだろう。これを脅しと受け取らないでもらいたい。ただの事実であるが、あえて恐怖や病気を経験する必要はなく、むしろあらゆる聖人が辿ることになる意識に帰ることができる。この意識が平常の意識になった先人は皆、いまのあなたのような狼狽は経験済みで、懐かしいものである。
672夜様は、私の眉間の疼きが魂の波動であると仰られますが、自分の瞑想体験に特に変化はないばかりか、672夜様もご指摘されるように、いまだに自我の質問を繰り返すレベルで、大した向上もしておりません。やはり私の眉間の疼きは単なる体質ではないでしょうか。
瞑想に変化や向上が見られないのは、その「疼き」を拒絶しているからである。その背景には自我の恐怖がある。急激な変化を自我は恐れるゆえ、無視すればいいのだが、無視できるようになるのは魂と融合した後であるため、今は信じてもらうより他にない。恐怖や不安ではなく安心を得るために、もっとアリス・ベイリーの本を読むべきである。「魂の光」や「ホワイトマジック」などは比較的簡単な内容であり、自身の体験と照らし合わせて理解できるはずである。明らかに自身に起きていることが書かれている箇所を見つけるだろう。人間の道ではなく、霊の道に転換するその狭間の時期は非常に困難なものであるが、独力と鉄の意志で切り抜けねばならない。すると、瞑想の変化を求める者自体が抹消され、「する者」がいなくなり、「存在」すなわち真我が顕現するだろう。その後、二度とあなたは私に質問する必要がなくなるだろう。このような読み物やその内容とも無関係になるだろう。そして二度と自身を「過小評価」するようなグラマーに屈することはなくなるだろう。
ところで奉仕の記事についてはいろいろと考えさせられました。私自身、奉仕めいたことをしているとすれば、信用が置けると思われる団体に毎月いくばくかの寄付をして、水や食料や医療などの基本的な物資が不足している人たちの助力をしている程度であり、これらの動機は、基本的物資は自由競争に任せるべきではないという思想と、持てる者が持たない者に助力することは、ある種の道義であろうという思想から来るものであり、とても672夜様の仰る「自分はいいから他の人の苦しみのためだけに生きようという意志」とは程遠いものです。
私はどの団体(つまりどの自我の集団)におけるお金の流れも信用しなかったためそのようなことをしたことがたぶんない。私は物質界の個人による奉仕にはあまり興味がない。もし魂のエネルギーを霊的学問の導入口として捉え、エネルギーとフォースを識別できるようになりさえすれば、結果の世界で働くことの無意味さが理解されるだろう。結実した後の結果に生きたところでその実態は単に条件づけられているだけである。人間のような諸体のフォースに条件づけられる道具ではなく、人間のような道具を条件づける霊的エネルギーと意識は融合し、道具や媒体を個人の意志ではなく神の意志に従わせることを学ばねばならない。それは非常に楽な道である。なぜならそれだけが自然の流れだからである。
これが分かる前は、「自分はいいから他の人の苦しみのためだけに生きようという」個人の意志――それは結局のところ魂の意志に感応し始めただけであるが――に生きるべきである。しかし、それを妨害するような「現実」に我々は圧倒されがちである。それはしばしば、以下に続けてあなたが書いているような環境のことである。
また私は弁護士業務として正当な報酬をしばしば放棄したり、あるいは減額していたりしていますが、それは請求するのが面倒くさくなったり、契約通りの報酬を請求すると当該結果からすれば依頼者が不満を持つのではないかという遠慮が動機となっているため、とても奉仕ではありません。このように外見的には奉仕のように見えなくもありませんが、動機は大きく異なり、とても私には奉仕の動機は持てないように思えます。それどころか、私は仕事において上記のような有様なので、弁護士という職業上のイメージからして信じられないかもしれませんが貯金はゼロであり、口座には数十万円の残額しかありません。多くの同業者が高級車に乗っておりますが、私は軽自動車すら購入できずずっと自転車のままです。これは私が清貧を貴ぶ故ではなく、単に昔から金銭の管理が下手くそなためであり、このままだと今後の経済的自立が危ういため、もう少し資産管理をしっかりしなければいけないと考えているぐらいです。およそ奉仕の動機からは遠いといわざるを得ません。
この文章が私は好きである。文面から正直なパーソナリティーに到達していることが理解される。正直さや、自身を正当に観察する能力は普通の人にはない。ゆえに、魂のエネルギーが循環する媒体になり得たのかもしれない。ともあれ、私はこの文章内容に非常に喜んだ。不謹慎に聞こえるかもしれないが、喜んだ。なぜなら、この魂の環境演出は、あなた(パーソナリティー)に霊的なものを学ばせる時期にしばしば起こる典型的な環境だからである。言い換えると、あなたは魂の大いなる祝福を目の前にしている。ここでよくあるパターンは、孤独、貧乏、劣等感、将来への不安といった切実さを伴わせるためのこの世の環境演出である。
逆にいま、あなたに金持ちの環境を魂が与えたならばどうだろうか。あなたは霊的に失敗するだろう。高級車を買うだろう。少なくとも徐々に贅沢が始まるだろう。すると箍が外れて、「道義」のブレーキは段々ときかなくなり、気付いたときには魂の波動も来なくなっており、かなり辛い不幸という一撃が加えられるまで、金で得られるこの世の快楽にどっぷり浸かるおのれを見い出すだろう。と同時に、金持ちであるにも関わらず、何でも大体は手に入れられるにも関わらず、自身が以前よりも不幸になったことを認識するだろう。次々に失敗するだろう。こうならないように、つまり霊的学習に専念させるために、一時的に魂は物質的な環境をあなたから隠したのである。672夜の読者には、より過酷な環境に置かれている人たちがいることもまた事実である。そのパーソナリティーに耐えられる範囲で魂は演出を課すが、これは第二イニシエーションの前には必ず起こらねばならない。つまり、どのような悲惨な環境であろうとも、またどのような悲劇が個人に襲いかかろうとも、情緒的に乱れることがなかった、というテストをクリアし、実際に世の中でそれを実証しなければならないのである。
あなたの場合、魂の波動が降りてきているため、このテストを簡単にクリアする意識が可能になりつつある。瞑想で、その魂のエネルギーに身を委ねてください。完全に固定する必要は全くないが、目と意識は眉間に保ったまま、そのエネルギーが意図するままに任せ、何もしないことでそれを受け入れてください。諸体とこのエネルギーが一致したとき、魂と整列するようになり、魂が喜びであることが知られるであろう。そして、最初に引用したようなブッディ・レベルの意識に導かれ、主客の分離は意識においてなくなるだろう。この世から切り離されて、何が平和であるのかを、生まれて初めて知るであろう。世界や個人から分離することで、すべてとの分離がなくなるだろう。
私は、あなたをこの領域まで今生の間に引き上げたい。そして、惨めで辛い環境に思えるこの世の演出に惑わされることなく、また周囲の人間の評価などにも惑わされることなく、おのが内部の魂をパーソナリティーが拠り所にできるようになり、互いの歩み寄りによって、ついには融合を達成し、一体という途方もない愛に貫かれてもらいたい。すると、「永久に水から出て、溺れたり沈んだりする危険がもはやなくなる」だろう。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたと共にいる。川を渡るときも、水はあなたの上にあふれない(イザヤ43-2)」という臨在が恒久的になるだろう。この臨在によって、高級車ではなく、恒久者に乗り、アストラル界の象徴である水に飲まれることなく、「海の表面を歩き、安全に目標に向かって進む」ようになるだろう。こうして永遠なるものを我として知るであろう。このようにして第三イニシエーションが達成され、神の奉仕以外において、ほとんどこの世に用はなくなるであろう。
イニシエーションからイニシエーションへと進むその過程の困難さと悲惨さは(変容のイニシエーションである第三イニシエーション後に)減少する。その理由は、彼が次第に自分自身の個人的な状況の支配者になるからである。
「光線とイニシエーション下」p.199
