失敗しても許すのは神だけである。悪いことをして帰ってきたとき、これ以上ない優しさで抱きしめてくれるのは神だけである。この世で裁かれた人を裁かないのは神だけである。この世で助けられるに値しないとみなされる者を助けるのは神だけである。神とは真我であり我々自身であるが、自我にとっての最初の神性、神を表現するものは魂である。彼によって人類は救われる。キリストがその象徴でしかない魂である。このお方とはいつであれ瞑想で出会うことができる。とはいえ、魂はそれ自体で存在できるであろうか。それが何であれ、存在を可能にさせているものは生命である。生命以上は、もはや遡れるものは存在しない。そして、我々が生命でなくして何であるというのだろうか。
「私は生きている」と言うのはマインドである。このマインドは生命を概念で想像することしかできない。この霊的に無能なマインドを魂が押し黙らせるとき、我々は生命そのものではないだろうか。我々は、特定の個人ではないし、その特定の個人が背負っているどのような責任からも自由な存在である。我々が生命であるならば、すでに解放されていることを知る。神人一体。しかし人はもはやいない。神だけが実在である。命だけが実際に在るものである。このことを讃えたい。このことを誇りたい。このことを賛美したい。このことを永遠に喜びたい。
この世と、この世の人々は、我々に様々なレッテルを貼るし、貼られた自我はそれに応じて喜んだり傷ついたりするが、我々に貼られたレッテルを剥がしてくれるのは神だけである。我々が一箇の人間ではなく、神であることを教えてくれるのは神だけである。なぜなら神は愛であるから。
神は怒らない。神は批判しない。神は有害ではない。有害性から完全に無縁どころか、本物の愛であり、愛の伝道師であり、常に我々を愛し、我々を助けたいと願っておられる。一生のうち、瞑想に触れずして死ぬものがほとんどである。まだ人類は若すぎる。魂の年寄りは、肉体がたとえ若くとも瞑想を重んじ、見かけにすぎないこの世に騙されることなく、本物のみを追求する。この現象の世界で何が起ころうが、肉体的側面が失敗したり、悪いと言われることをしたり、刑務所に入ったり、裁判官に裁かれたりしても、我々が神を知っているならば、すべては美しく、すべては喜ばしく、すべては愛しいものである。肉体や現象的側面に煩わされることはないし、影響を受けることはない。なぜなら、このうえない愛の波動に包まれオーバーシャドーされているがゆえ、常に守られ、無知は知恵に抱きしめられ、見えているものが本物という錯覚からは自由であり、偽物が決して触れることのできない本物自体が我々を守護するからである。
今、一時的に私の身体は良くない状態である。普通の人ならこのような文章がかけるような状態ではない。苦しくてのたうち回っているか、寝ているしかやりようがないだろう。私は何年も瞑想してきたがゆえ、肉体にいながら、肉体意識からは切り離され、自由である。それは神として神のみを見るからである。しかし肉体として肉体のみを見るならば、それは苦しいということになる。肉体的側面は、霊的に治療することは可能であり、これを書き終わる頃には勝手に癒えてもいるだろうが、もし我々が神すなわち生命そのものに生きているならば、病気でも健康でもどちらでもよいのである。イニシエートが病気になって死ぬのは、彼が治せなかったからではなく、どうでもいいからである。服が破れたとする。破れたボロボロの服で町を歩くことは憚られねばならぬゆえ、これまでありがとうと言ってお辞儀をし、その服を脱ぎ捨てるはずである。そこにあるのは、愛という感謝のみである。
いつでも嬉しい自分。いつでも喜び溢れる自分。いつでも恐怖なく愛である自分。いつでも苦しみなく至福である自分。この自分とは、真我である。このような神性のみが放射され表現されるのは、真我の顕現ゆえにである。真我すなわち神という本物のみを求めてもらいたいとひたすら誰に対しても願っている。肉体や心や個人に目もくれず、錯覚という錯覚に目もくれず、瞑想という、すべての偽物に目を瞑る過程を通して、本物を意識に引き込んでもらいたいという切なる願いである。だから貫通していただきたい。すると、低位我の波動は打ち消されるため、我々は目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、無音無声の賛美歌が聴けるようになり、感情や情緒はすべて愛によって上書きされ、個人を動かすのは我々ではなく神になる。
まだ宗教にすがっているような兄弟姉妹は、「神の御心のままに」と言うが、残念ながら彼らは神を知らないし、神の意志も知らないし、そのような言葉を換言すれば「助けてください」である。これを無知と呼ぶ。瞑想を通し、私と万物すべてが神であり生命であることを直接知り、健康をくださいでもなく、幸福をくださいでもなく、助けてくださいでもなく、「我は肉体にあらず、我は神なり」という境地へ貫通するまで小さな自己を放棄し瞑想に明け暮れるならば、すでに助けられているし、必要なものは最初から与えられていたことを知るだろう。これを悟りと呼ぶ。瞑想で起きることは、神との貫通であり、神による自我なる迷いの抹消である。この貫通のための聖なる工事が起きるのは、瞑想で我々が高次に身を委ねたときのみであり、そのとき我々は自身の好き嫌いには目もくれず、真に純粋に、「神の御心のままに」と言い、犠牲というものが喜びに満ちたものであることを学ぶ。なぜなら、我々の神は犠牲の神だからであり、古いものを犠牲にしたとき、新しい何かに出会うことが可能だからであり、犠牲にしたときのみ神と波長が合うからである。
もう長いから、そろそろこの辺で締めていただきたいと言われても、神を讃える歌に終わりはない。昨日、意地の悪い人に、まさに意地の悪いことをわざと人前で言われ、暗に自分が周囲から疎まれ嫌われているということを言われたとき、傷ついて、そのあえてそういった意地悪を口にしてきた者に腹が立ち、許せないという気持ちを抑えることができず、傷つけざるを得なかったという話を聞かされた。また、自分は瞑想の初心者であり、まだ大いなるものとの接触がなく、愛したり、許したりということができない自我意識であることを強調された。しかしながら、心が貧しい意地悪で有害な者ですら、兄弟なのである。そのような口の暴力でしか己を満たすことができない兄弟に対し、我々には、蔑むためではなく純粋な意味で可哀想だと感じ、助けてやりたいという想いがあるはずだと答えたが、許せないという感情があるだけであり、頭の中ではその光景が幾度となく繰り返され、ただ苛まれるだけで辛いという返答であった。
我々が、もしやろうと思うなら、そのような有害な者に地獄を見せることは簡単なことである。いくら泣いて謝ってきても許さず、死ぬまで苦しめ続けることも容易である。なんなら、その者の家族もまた道連れにしてやることも可能である。このようにすることで、このようなことをあなたにさせた力、カーマ・マナス的なフォースの主であるエレメンタルを満足させることが可能になる。そのとき、あなたはすっきりするかもしれないし、やりすぎたことを後悔するかもしれない。一通り、この種のエレメンタルを満たすための想像をしたならば、少しはすっきりするだろうか。
まだ、太刀打ちできないフォースというものが我々にはある。だから何が起きても耐えるしか方法はない。そして瞑想し続けることにしか希望はない。瞑想中ですら腹立たしい光景が蘇って仕方がないと言われる。しかし、それでよいことを知らねばならない。好きなだけ蘇らせればいい。何も抵抗しないのが瞑想の基本である。あなたを苦しめる有害なマインドに対してすら無害を貫かねばならないのである。どのような生き物であれ、無視されることが一番堪えるものである。花ですら、毎日良い言葉を投げかけた花、毎日罵倒を浴びせ続けた花、毎日無視され続けた花があるとして、最初に枯れるのは最後の無視された花である。誰からも注目を向けられなかったことが形態の死の原因である。そのような意味で、瞑想は無視の科学である。無視とは、気に留めないことであり、注目に値しないとみなすことである。つまり、エネルギーを対象に注がないことである。腹立たしい光景が何度蘇ろうが、それでいいと思うことが重要である。つまり、無限にマインドの意地悪を許し、どうぞと言い、神の御心のままにと言い、関わらないことである。感情でも同じことであり、怒りが起こってもいい。許せなくてもいい。全部それでいいという態度を取るならば、あるいはそのような練習をするならば、対象は困る。かまってもらうために何度も惨めな光景や嫌いな者の顔を蘇らせてきて、激しい振動を強いろうと意地悪を続けてくるかもしれないが、それでいいという無抵抗を我々は貫く。すると徐々に静かになるため、結局のところ、どうでもいい話であることを理解するだろう。この世の出来事は、ただ勝手に起きているだけであり、我々とは何の関係もない。嫌いな者を愛そうと試みても、愛を知らないのだから基本的に無理である。愛は、愛そうという努力がないときにのみ知られうる。何とも関係しないときにのみ立ち現れうる。真我以外は全部錯覚である。そのような錯覚に惑わされていたことをいずれ笑い飛ばせる能力が発達するだろう。錯覚に力を与えず、そのような者のことを考えず、考えが起きても無視して、本物だけに向かい続けることである。
我々には、こうした誰にでもしばしば起きる類いの些細な出来事ではなく、もっと難易度の高い試練がいくつも訪れるということを覚悟せねばならない。道にある者が自らの達成を実証するためのこの世的なテストは、最高レベルの難易度である。つまり、神でなければクリアできないレベルである。我は肉体でも個人でもなく、神である。偽物ではなく本物であり、自我ではなく真我である。現象ではなくその背後の生命である。全にして一である。このお方にだけ、自我は向かい続けることである。寝ても覚めても瞑想。初心者は長時間瞑想をしてはならないが、多少なりとも融合し、魂意識を発達させねばならないような弟子は、ずっと瞑想意識を維持する必要がある。あるときは神意識で全一体の至福、しかし瞑想から出たならば再び肉体意識という二重性の期間は長く辛いものであるが、我々は神に向かうしか方法が残されていない。だから、苦悩する者のみが幸いである。楽勝な人生である者が、どうして神を求めるだろうか。自我という無能無力である錯覚に打ちのめされ、自我であることに苦しみ、何としてでも本物を知りたい、本物に至りたいという願いと熱誠だけが我々には必要だが、瞑想で発見することは、このような方向へ向かわせている力の背後にして源に神の意志が在ったということである。そして自我にとっては神の意志である魂の意志にのみ従うならば、当然ながら神へと貫通するだろう。
神を讃えることに終わりはない。どれだけ賛美しても賛美しきれない。永遠の賛美すなわち永遠の瞑想つまり観照。向かうところ敵のない愛。向かうところ恐怖のない真我。なぜなら、すべては私、一つなる命だからである。とはいえ、このパソコンを使っているのは私だけではないため、別の私から、14:00からは使わせてほしいと言われていたが、過ぎてしまったからここで終わらせねばならない。かくして終わるが、当然ながら、我々の瞑想、神による神のための神の賛美歌は永遠に続く。