元日の風呂はタブーであり、正月二日にはじめて初湯や初風呂に浴するべきだと昔の人は言う。では、元日の入浴を禁ずるのみならず、さらに一週間、あるいは一ヶ月、風呂に入れないことにしてみよう。我々は不潔に苦しむことになる。やっと風呂に入れたとき、我々は多大な細胞的刺激を受け、入浴でこれほどまでに身体が喜ぶのかと強く感じるであろう。そして風呂から上がり、晴れ晴れして、心から気持ちよかったと言うだろう。逆に、毎日あるいは日に二回など、常に清潔で心地よい温浴を求める風呂好きは、滅多にしか入浴しない者よりも、入浴時の身体的刺激(心地よさ)に関して言うならば、軽微な感覚的恩恵しか受けられないであろう。では、あえて何日も風呂を我慢して、幾日も不潔を耐え忍んで、そうすることで、入浴時の快楽つまり刺激を大きくするよう工夫すべきなのだろうか。それとも、刺激は少なくとも、日々に温浴し常に清潔を味わい生きるべきなのであろうか。
「私は何時間瞑想すべきでしょうか。日に何回、どのくらいの時間瞑想するのが適切でしょうか」という質問について。逆に問うならば、シャワーも浴びず風呂にも入らず、我々はどのくらい不潔にしていられるだろうか。身体的な不潔は苦痛を伴う。一方で清潔は身体のみならず精神の衛生にも有用であり、肉体的には病原体の増殖や侵入から守り、臭気や外見的不快を社会に撒き散らす必要もなく、機嫌の悪さや体調悪化の要因をも減らし、全体的な健康維持に寄与するだろう。
しかしながら、魂の清潔に個人を入浴させることが瞑想である。不潔な者がその不快ゆえに入浴を求めるように、瞑想の心地よさを知る者は、自我意識に生きることによる穢れを放置し続けることは不快極まりないことであり、絶えず魂に浴することを求めるようになるだろう。これが真の魂浴である。この世の者は、男と女が共に浴することを混浴と言うが、魂とパーソナリティーが共に浴する魂浴だけが真に清潔で美しきものである。では、何時間瞑想したらよいのだろうかという質問には、何時間瞑想せずに耐えられるのだろうかと聞きたい。これは、進化段階を測る目安でもある。
最初のうちは、瞑想による魂的な恩恵が分からない可能性がある。たとえば、何らかの私益を求める動機や目的で行われる瞑想ならば、成果や結果に縛られて、雑念だらけで自分の瞑想は駄目だとか、何の効果も感じられないからもう瞑想するのは嫌だとか、個人的な快不快や気分の問題となり、瞑想そのものの(魂的な)心地よさは決して知られることがないだろう。それは瞑想で何かを獲得するものだと錯覚しているからである。この場合、私的な動機で瞑想する者にとって、瞑想は義務であり、何分あるいは何時間すべきか、という問題になる。「私は日に何時間、あるいは何回くらい風呂に入るべきでしょうか」と言う者はあまりいないと思うのである。だから、質問自体に、動機の不潔さ、あるいは考え違いが含まれている可能性を検討しなければならない。自らの不純な動機や、そのような動機を可能にさせる欲望や恐怖といった源を突き止めるならば、その内的省察自体が瞑想へといざない、最初の質問を消し去るであろう。
「私は長時間の瞑想を止めるべきなのでしょうか」という質問もまた、どれだけ自我意識に生きることに耐えられるかに関係しており、瞑想の心地よい魂意識を多少なりとも知るならば、自我意識に耐えられる時間というものは短くなりゆくものである。今日は二回も瞑想したから残りは娯楽に当てようと言うのは悪くないが、そのうち、この世の娯楽を味わえなくなるか、娯楽の最中に苦しむようにさえなるだろう。瞑想や学習を終えて、趣味である映画を見たり、娯楽として友達と遊びに出かけたり、ややアストラル的な刺激に興じる必要があるとしよう。最初はそれが可能であるとしても、やがて、それら娯楽の最中に、言いようもない苦痛に苛まれるようになり、「私はこの波動に耐えられない」と音を上げるようになるだろう。このようにして、魂浴という、物質の波動と霊の波動の平衡を取るための清潔な意識を保っていなければ、全く”正気”で生きられないようになるだろう。こうして人は”24時間瞑想”の意味と意義を学ぶようになり、波動の調和を清潔と定義するようになり、ここではじめて正しく生きるとは何であるかを体現し始めるようになるであろう。
初心者にはこれらのことを話さずこう答える。「長時間瞑想は危険だからやめるべきだ」と。まだ魂ではないゆえ、瞑想のやり方つまり在り方が分からず、高位我のエネルギーの受け入れ方に精通しておらず、結果として努力や抵抗を否応なくさせられている自我の動機意識で瞑想を行う場合、その摩擦や、特定の瞑想法の試行錯誤や、雑念を無くそうとする強制的な態度などによって、諸体と諸体の器官は痛めつけられることになる。魂は何もしていないし、何もしない魂の状態が瞑想状態であるが、個人はあらゆることを瞑想で行おうと騒がされるゆえ、自らを条件づけるものに対して霊的に無知かつ無力である時期は、日に三十分か四十分の瞑想を一回か二回、苦痛を伴わない程度で行うべきである。少しでも苦痛が伴うならば、間違ったことをしている。これを覚えておき、ゆっくりとしか進歩しないのが普通であり、また賢明であるということを認め、性急になる自らの傾向の源である悪しき動機の解明にむしろ取り組むべきである。
不純な者、瞑想で私的な願いを満たそうとする者、成果や結果を急いで得たがる者――このような兄弟姉妹には、真実を教えたくても教えられない。聞いてくれないのだから。まだ聞くための素養と経験がないゆえ、間違った方向に進んでいる者に対しても、警告はするが、基本的にはその者自身が痛い目に遭って学び、何が間違いなのか、何が法則と違ったのかを理解して戻って来るまで、魂は永遠に沈黙しているだけである。この意味で、672夜はある種の防壁のようなものがあり、アストラル的な者を拒む門番をあちらこちらに配備しており、自身を条件づけるものとの同一化という間違いを受け入れ、不潔に疲れ果て、正しさや純粋さを求めたいがどうしてよいものか迷っている魂の同胞たちに、これ以上ない喜びをもってして門を開こうとするだろう。そして書かれている文章からいくらか得たものを踏み台にして、「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」と言われる天人方の意識に入ってもらいたい。こうして、新人だったものが神人となり、普遍的な一なる魂を介して下と上とを結びつけるようになるだろう。こうして、神の細胞は喜ぶだろう。あらゆる者、あらゆる神の細胞たちが本質へ帰るごとに、神の入浴は美しさと輝きを増し、すべての者が帰り着いたとき、神の肉体的な寿命はようやく尽きることが可能になり、神は彼における肉体の死を経験するであろう。このようにして、我々の惑星は聖なる惑星へと生まれ変わるであろう。人間の霊的宿命が関係しているのはこの神の宿命であり、我々の神の宿命もまた、より大いなる存在の宿命に包含されており、上と下の神秘は無限のもの、想像を絶するものである。
