前の記事を読んで、「私も誰かのために生きてみよう、生き直してみようと思いました」とある人が言った。これはもう間違っている。導入としてはいいかもしれないが、それは本質的に、「自我による自我のための努力」であるため、すでに苦痛の性質を帯びている。しかし真の奉仕は自発的なものであり、それは愛と喜びと一体性に根ざしている。それは神の意志がその者を貫くゆえに起きるものであり、神の力が肉体や精神を導くがゆえに純粋かつ無努力に行われるものである。だから冒頭の宣言は自我の宣言でしかなく、動機は不純である。
ラマナ・マハルシですら前回の引用では意志について語っていたではないだろうか。
事実は、明け渡した後に好き嫌いを言うことなどできない。あなたの意志は完全に不在となり、神の意志がその場を引き継ぐことになる。
「神の意志」と「あなたの意志」を言い換えると、エネルギーとフォースである。神の意志、つまり神性の意志様相を最初に個人に伝えるのは、魂のエネルギーであり、すなわち魂の意志様相である。魂と個人が一体化した後、その者を導くのはトライアドの意志であり、すなわちアートマと呼ばれるモナドの意志様相である。
エネルギーとフォースを識別できぬかぎり、神の意志と個人の意志を識別することもまた不可能である。
意志とは……根本的に犠牲の法則の表現である。この法則のもとで、全体の中の一単位は責任を認識し、全体と自らを同一化し、「無一物のようで(犠牲)、すべてのものを所有しています(普遍性)」という言葉の秘教的な意味を学ぶ。この完全な表現は第四イニシエーションつまり大いなる放棄のイニシエーションの後に訪れる。すべてのものが託され、それをすべての人のために使用できるようになるために、すべてのものを放棄するのである。そのとき、善を為さんという意志が支配する。
アリス・ベイリー「新時代の弟子道6」p.48
このような神の意志にほんの僅かであれ感応できるようになったとき、見習いの道において、「自分のことを諦めよう」とか、「自分ではなく兄弟姉妹だけのために生きよう」という意志が優勢になるのである。それに成功したとき弟子は次のことを一発で理解する。荷物が下ろされたと。つまり、それまでは自分のために生きていたから苦しかっただけであることを知る。荷物が下ろされた後、つまり自分が諦められた後、自分が解放されたという境地を体験する。このようにして彼は魂と融合し、小さな自己を喜んで犠牲にすることで無一物となり、この世のいかなるものにも無執着と無関心と無所有が達成され、根源の認識すなわち存在(I AM)の認識によって普遍意識に至り、すべては我なりの境地に至る。
求められているのは、個人に関する限り神の意志である魂の意志に従い、完全に自己を放棄するという内的な態度である。
新時代の弟子道4 p.314
訓練を受けているイニシエートの姿勢は正しい霊的な動機――神性の意志様相つまりモナドの知的な遂行という動機――という姿勢になるべきである。そのためには、パーソナリティーの自我意志を魂の犠牲的な意志に没入させることが必要である。それを成し遂げたとき、それは聖なる意志の啓示につながるであろう。この意志について、イニシエートではない人はどのような概念も持っていない。
光線とイニシエーション上 p.55
これを動機と呼ぶべきか分からない。神の意志は、人間の動機とは完全に異なる。それは個人の意志ではないゆえ、動機ではなく、自動的な意志である。したがってラマナの言い方が我々にとっては正しく伝えるものである。すなわち、
神の意志がその場を引き継ぐことになる。
この意味において、個人は行為者ではなくなり、個人は存在しなくなり、個人という現象の世界における媒体は、ただ神の意志の媒体でしかなくなる。人間はいま、低位我のフォースの自動人形状態であるが、新しい意識においては、高位我のエネルギー(神の意志)の自動人形になる。言い換えると、かつて物質は物質のフォースに条件づけられていたが、発達し成熟した後、物質は神の意志に適う乗り舟になるのである。これが変性であり、第三イニシエーションまでにすべての弟子が行っている「訓練」である。
第三イニシエーションの後、イニシエートは意識には全く関わらず、自らの個人の意志と神聖な意志との融合に関与するようになるという事実を、あなた方は把握してきたであろうか。イニシエートはそのとき、接触の感受性を増大させることや、周囲の状態に対する自らの意識的な反応には夢中にならずに、大計画への奉仕という科学の持つダイナミックなエネルギーにますます気づきつつある。この違いを認識できるようになるのは、パーソナリティーと魂の意志が融合され、その混ぜ合わされた表現が神の大目的の燃える光の中に消え去ったときだけである。
光線とイニシエーション上 p.55
実際は、第三イニシエーションの前にこのようなことが起き、弟子は自身を条件づけるすべてのフォースを、逆に魂を介した神のエネルギーによって条件づけようと試みるようになる。これが成功したとき調和と平和の一体意識が知られ、融合し、我神なりが理解されるようになる。これが完全になったとき、変容のイニシエーションである第三イニシエーションは完了する。このとき変容するのは意識である。人間の理解している意識とはまるで異なる意識領域がその者の通常意識となり、そこから逸脱することがほとんどなくなる。「ほとんど」と言ったのは、彼がまだ第四イニシエーションを受けていないからである。
以上を踏まえて冒頭の読者の言葉をもう一度見てみよう。
私も誰かのために生きてみよう、生き直してみようと思いました。
この転換は良いものである。まだ自我の意志であることを忘れずにいるならば、良いものである。しかし、文章の中に苦痛が見える。言い換えると、本当は自分のために生きたいのだが、無理をして、他人のために生きるということをしてみようと努力したい、そこに自分の希望を見出したい、という不純な動機による摩擦の苦痛が見える。これは調和とは逆の道を歩んでいる。奉仕とは異なるということである。結局のところ、自我の意志は神の意志ではないという意味である。それは、明け渡していないことをさらに意味している。
となると、明け渡しは個人が行うことではないという事実が知られるであろう。ラマナの本では、明け渡しは方法として教えられているように見えるときがあるが、方法とは個人の意志によるものである。しかし明け渡させる力というものは個人ではなく神の意志であることを理解せねばならない。ここまでラマナは教えねばならなかった。しかし、ラマナのところに訪れる者がこれを理解できぬゆえ、彼は妥協して方法論に見える言い方をすることがあった。だが実際はそれは個人が行うことではないゆえ、決して方法ではなく、個人の意図で引き起こされるものでもない。
我々が瞑想で発見するのは、個人の意志を超越した神の意志である。これを神秘的かつ大仰に想像する必要は全くない。いま現在、すでに最も純粋なかたちでこの意志とエネルギーは我々を貫こうとしているが、諸体の騒がしさ、つまり諸体のフォースの方が圧倒的に優勢であるあまり、神の意志があたかも存在していないかのようになっており、脳意識においては知覚の対象外となっている。これはすべて無知や錯覚による隠匿であり、これらの悪と呼ぶべき無知や錯覚を溶かす力を呼び込むためには、瞑想しかない。瞑想が成功したとき、奉仕は自動的なものになるだろう。神の意志が我々を貫いたとき、神の計画に対する奉仕は、神の意志において自動的なものとなるだろう。神の意志とは、神の列車である。この列車だけが真の目的地まで運ぶことができる。それは惑星のイニシエーションであり、惑星の変容である。
したがって、ある時点においては、瞑想が最高の奉仕である。正しい瞑想であるためには、何が正しさであるのかを、書物や他人の話に影響を受けることなく、自らの瞑想から学ばねばならない。これもまた自動的な学びであり、この世の学校の勉強のような苦痛に満ちた努力を伴う学びではない。内なる秘教学校での学びは、心地よさの中でのみ学ばれるものである。なぜなら、教師とは調和そのものだからである。これらは、完全に独学で学ぶものであり、決して誰かが教えられる類いのものではない。なぜなら、真理は頭で理解するレベルのものではないからである。仕方のないことではあるが、私に投げかけられる質問はたいてい頭からの質問である。それを理解させたいため、それは自我の質問ではないか、と私は最初に言うことが多い。言い換えると、くだらない質問だと言っているのである。なぜなら、理解するのは頭だからである。頭に生きるかぎり、神は理解できない。
このような話を難しく感じさせるのも頭である。だから頭は捨て置いて、瞑想しろと私は言いたい。なぜなら、瞑想とは頭を捨て置くことだからである。瞑想を続けるならば、徐々にこれは理解されるだろう。つまり、自分ではない力が訪れ出すだろう。個人の意志が諦められるようになるにつれ、神の意志が顕現するようになるだろう。キリストは、この意志のことを、父と呼んだのである。
