神の血行

神の第一様相である生命や意志の人体における主な象徴として、血液が挙げられる。血液がより純粋で、乱れなく、滞りなく、あらかじめ設計されているよう円滑に循環できるようにしておくのが肉体の健康における基本である。一昨日、昔から知っている者が、もう中年太りで、前は足が速かったが走れもせず、歩くのも膝が痛い、動くとすぐに息が切れる、疲れやすい、もはやいつ死んでもおかしくないと自嘲ぎみに語っていた。身体は硬く、ほとんど前屈もできない。その者の奥さんが、もっと肉体を大切にしてほしいと切実に嘆いていた。このままではと、危険な未来を怖れていた。

一つ面白いことをやってみようと言って、まずその者を座らせ、足にどれだけ手を届くか伸ばさせてみた。膝あたりまでしか手が届かない。足には届かないのかと言うと、もうこの体では不可能だと言った。伸ばすとすぐに痛いと言うからおかしかった。まず痛い感覚に集中させ、私もそこに集中して痛みと硬くさせているものを癒すと、直後にスッと15cmは手が足に近づくのである。これを何回か繰り返すと、三十秒もかからず足に手が届き、絶対に無理だとさっき言ったことをすぐに可能にしてやった。神の力を使用して。これには本人もその奥さんも大変驚いていた。そして、その嬉しい副作用として、ひじょうに体が元気になったとその者は言った。それは血液の流れを良くしたからである。この者は、数十秒で体の硬さから自由になり、軟体になり、すぐに息切れするような状態から元気で活力のある状態に復活した。信じられぬだろうが、目の前で見せたのだから、見たものは事実ではないのか。そうなったことは事実ではないのか。驚く者たちを見ながら私はおかしかったし愉快ですらあった。神の力を認めかけているからである。

肉体で活動する際には肉体的な制限が伴う。あの肥えた馴染みの者も、体操教室のようなものに通うならば、身体を柔らかくするのに何か月か何年か必要になったであろうが、神のエネルギーつまり神通力を使えば、数十秒で済み、大幅に無駄な時間を相殺することが可能になる。弟子が通常の人間の百倍のスピードで何事もこなすのはこれゆえである。この話もまた、あらゆることに応用できることを知らねばならない。肉体の制限は神で治る。病気や、病気になりつつある物質の動きも、以前の質問者の良き表現を借りるならば、瞑想で「スキャン」した際にすぐに特定でき、すぐに治療できることを知るであろう。だから、真に瞑想できる者は理論上では健康である。しかしカルマや高位の新しいエネルギーの受け入れの際の問題などがあるため、その理論が一時的に無効化される時期や可能性は多分に存在しはするだろう。しかし、我々は肉体とは関係ない存在なのだから、病気だろうが不調だろうが、肉体から意識は自由になることができる。

たとえば、私はあまり寝ない。仮眠をときどき取るだけである。それは眠いからではない。私は生命つまり真我であるゆえ、決して眠くならない。眠くなるのは肉体である。だから、目がかすんできたり、何かしら肉体が睡眠を必要としている兆候が見られたとき、肉体のために仮眠を取るというスタイルである。肉体は有限体であるゆえ、肉体で使用できる分のエネルギーが枯渇して肉体に症状が現れたとき、人は眠くなったと言うが、瞑想する弟子の場合、決して自分と眠気を一緒にすることはないであろう。眠気を感じないであろう。眠気の兆候が肉体に起きていることを知覚するだけであろう。このように、肉体と意識は切り離されゆくべきである。決して「私が眠い」という感覚であってはならない。睡眠を必要としているのは肉体であって我々ではない。真我は睡眠の必要性とは無関係である。

すべての場面にこの切り離しが応用されるべく、意識を正常に保っておく必要がある。でなければ、「私が」という間違った自己同一化の認識に陥るであろう。肉体から血液を抜き去るならば肉体は即座に腐敗して消えてなくなるように、生命エネルギーなくして形として存在できたり、動く形態であったりできるモノは存在しない。あの身体の硬い者が、柔らかくなり、血液の循環が正常化され、血行が良くなったとき、たちまち元気になったのは、その血液の流れを滞らせるものをいくらか解除したからである。子どものとき、自分が元気だったことを思い出したとその者は言って感動していた。そしてありがとうと何回も私に言うのである。私に言って何になるのか。すぐにまた硬くなるだろう。また私を必要とするだろう。だから自ら学ばずしてどうするかと言うのである。何であれ癒すのは神の力である。生命そのものの純粋な力である。この力は、前の記事の専門用語を使うならば、アンターカラナが構築され開通していないと流れてはこない。神通力は使えない。我々は、まだ一時的に人間体に制限されているが、瞑想し、必然として多くを学んだとき、かつて束縛されていたものから徐々に自由になるであろう。そうなってほしいと切に願っている。

だから真面目に瞑想する者のなんと嬉しきことか。明るき未来へ向かう者のなんと美しきことか。アンターカラナのトンネルが開通し貫通するまでは、神通力は使えぬゆえ、人間として不便であろうが、またその不便や制限ゆえに不幸や悲劇のようなものに対処できないであろうが、そのような時期はきわめて一時的なものにすぎない。誰であれ例外なく、自分が肉体ではないことを魂として認識するであろう。これを妨げることができるものは存在しない。あえて霊的な生き方から逸脱することを選ばないかぎり。

とはいえ、我々は完全ではないため、マスターしてはいないため、カルマ的にも、また周期の法則的にも、前進と後退を交互に繰り返すことになる。螺旋状にしか進めない。ゆえに、失敗したときに自分を責めたり、責任感を感じたりといったグラマーからも自由になっていなければどうしようもない。肉体に起こること、運命の責任は我々にはない。他人から見れば、我々の肉体の失敗が我々の失敗だとみなされるが、そのような批判は無視すべきである。また自身に対する自身による批判も無視し、そのようなときはすぐに魂に意識を切り替え、おのれが自由であることを確認できるよう、日頃から瞑想と奉仕に専念しておらねばならぬ。すると、この世や肉体による制限からは驚くほど自由になり、この世の常識では不可能なことも簡単になるであろう。その意味で、我々は魔術的になるであろう。神に生きる者である場合、それは常に白魔術であり、神とその多様な分身である人類や森羅万象の手助けのためにのみ、力は使用されるであろう。

弟子の場合、自分つまり個人的な自己のためには一ミリも力は流れぬゆえ、個人的な目的のためには完全に無力であることを確認するであろう。白魔術師は、決して個人のために、つまり利己的な分離した理由で力を行使することは不可能である。神はそのような破壊的な錯覚のために力を貸す愚か者ではない。

いつだったか、ある文章を書いてくれと頼まれたことがあり、書こうとしたが、一文も書けなかった。頭で考えて書くしかないようなものは、書けなかった。また、神の目的のために必要な文章ではなかったゆえ、何一つとして書くべきことが思い浮かばなかった。だから672夜は書けても他のものは私は書けないと言って断った。神や奉仕と関係のあることしか書けないし、できもしない。すべての人間にこれは常に実際には当てはまっている。その者なりの興味が、別の者への利益や奉仕になっており、高い低いに関係なく、あるいは良い悪いに関係なく、すべての者に流れるエネルギーと、その者がしたいこと、興味を持つことは、大なり小なり奉仕的なものである。たとえこの世の見解からすれば悪事であっても。だから良い行いにも悪い行いにも相応のカルマがある。ここは理解が難しいところかもしれない。すべてに神を見るまでは、情緒やマインドが邪魔をして、一つの大海へとつながる様々な支流の不可解な動きを俯瞰的に見ることは難しいだろうが、理解するならば、実際は批判や非難すべき物事や人物や行為といったものは存在しない。その必要性が一時的にあるがゆえそれは起こったことが知られるであろう。永遠の視点からすれば許されない物事は存在しない。もし存在するならば、存在させた神は無知無能ということになることを覚えておかねばならぬ。

全能でありながらあえて何もしないのは、全能の働きが完璧だからである。この世の一時的な観点からすれば、理不尽なことや許されないことがあるだろうが、真の大団円から見るならば、それは必要であることが知られ、我々は無闇に口出ししたり手出ししたりしなくなるだろう。この意味で、ラマナは、世界のことは世界が面倒を見ると言ったが、それは永遠や神や法則や意志や目的が理解できた者だけが言えることであり、もしそれを個人が解釈するなば、逃避的なものへしか導かないであろう。つまり、途中までは一定の努力が必要である。なぜなら、行為をするのが自分であるという感覚から自由ではないからである。行為が可能になるのは高位我つまりエネルギーによってであることを知るならば、どのエネルギーに従うべきで、どのエネルギーは統御すべきか、自身の内部から捨て去るべきかといった識別が可能になるであろう。このようにして、イリュージョンは瓦解し、本物だけに従えるようになり、神だけが実現されるであろう。するとその者は、この世では聖人である。聖人体と言った方がいいだろう。純粋媒体でもいい。神の器という芸術品である。

分離した個人が隠された秘宝を見つけたならば、必ずや、なるだけそれを独り占めしようとするだろう。この世の金持ちはそういう意識レベルの者たちである。しかしこのような子供たちも利己主義という育児室で学んだ後は、全一体というかけがえのない喜びに目覚め、神の財産は、何としてでもすべての兄弟姉妹と分かち合わねばならぬという、善を為さんという意志に貫かれるであろう。なぜ神という真の富や宝を独占できるであろうか。すべての宝は、発見されるまでは存在していない。瞑想でも、真我を見出すまでは自我である。初期段階の弟子は、自分はその宝を発見できないであろうという結論に逃避することを隠れて喜ぶ。本当は、宝を見つけたくないのである。言い換えると、自我は真我を見出したら死ぬため、真我探求は名目であり、実際の目的は経験から得られる夢や挫折などを通してアストラル・エレメンタルを喜ばせることである。このような無知な自我ですら、瞑想だけには入ってはならなかった。というのも、自我ならぬものが瞑想では立ち現れてしまうからである。自我における禁忌もしくは真のタブーとは、真我である。自我は自我の維持が目的であるが、瞑想というものだけには関わってはならなかった。とうとう自我以上のものを召喚する扉が開かれ、高位我によって低位我が抹消されるのである。このなんと美しきことか。だから、初心者は自分で瞑想していると思っているが、そのときに知るのは、すべては神の力によるものであったということである。このようにして、フォースとエネルギーを識別し、退化と進化の違いを識別し、悪魔と神の意味を理解し、個人の意志が全く不要なものであり、神の意志をおいて他に重要なものは存在しないことを完璧に知るであろう。そのようにして不自然は自然に還るであろう。滞っていた流れは円滑になり、神の血行は促進されるであろう。これが惑星の元気の源となり、すべての生きとし生けるものが真善美の喜びに目覚め、神の財産をみなで分かち合うようになるであろう。だが今はまだ人類はそうではない。したがって、まずはおのれがこの種の話の事実性を瞑想で確認することからである。徐々に、一部や欠片の事実性を発見するだろう。書いてあることの一部が自身における事実になったことを認めざるをえないであろう。やがて神を見出すだろう。そして自我は挫折し、神にとうとう観念するであろう。こうして真我を実現するであろう。

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